夏目漱石の『三四郎』には、ニホンミツバチ養蜂のワンシーンが挿入されています。次の通りです。
三四郎は床の中で新藏が蜂を飼ひ出した昔のこと迄思ひ浮かべた。それは五年程前である。裏の椎の木に蜜蜂が二三百疋ぶら下がつてゐたのを見付けてすぐ籾漏斗に酒を吹きかけて、悉く生捕にした。それから之を箱へ入れて、出入りの出來る様な穴を開けて、日當りの好い石の上に据ゑてやつた。すると蜂が段々殖えて來る。箱が一つでは足りなくなる。二つにする。又足りなくなる。三つにする。と云う風に殖していった結果、今では何でも六箱か七箱ある。其のうちの一箱を年に一度づゝ石から卸して蜂の爲に蜜を切り取ると云つてゐた。毎年夏休みに歸るたびに蜜を上げましょうと云はない事はないが、ついに持つて來た例がなかつた。が今年は物覺えが急に善くなつて、年來の約束を履行したものであらう。
夏目漱石『三四郎』(春陽堂版(明42.5)の112ページ)から引用
これは漱石の時代のニホンミツバチ養蜂の様子を垣間見せるものです。しかし、「年に一度づゝ石から卸して蜂の爲に蜜を切り取る」に引っかかる養蜂家がいたとしても無理はありません。蜂の「為に」蜜を切り取るとは一体どういうことでしょうか。セイヨウミツバチ養蜂で行われている貯蜜圏圧迫に対応したことを言っているのでしょうか。蜂の「為に」蜜を切り取るということはなかなか想像がつきません。
そのため、この「蜂の『為に』」を「蜂の貯めた」の間違いではないかと考える人もいました。渡辺孝もその一人で、「時間に追われた植字工が間違えたのだ」とか「漱石の自筆原稿は『ためた』だったと思われる」といった趣旨の自説を主張し(ミツバチの文学誌、筑摩書房、1997年、pp204-206)、引用部分を「蜂のためた」と改ざんまでしています(ミツバチの百科 新装版、2003年、p38)。
渡辺孝は著作の多くに間違った情報を載せたり、日本の近代養蜂史の捏造を行ったりしてきましたが、なんと漱石の作品にまで改ざんを行うとは呆れてしまいます。
とはいえ、「に」と「た」は似ていますので、活字になるまでのどこかでミスが入り込んだ可能性があります。渡辺孝が「漱石のオリジナル原稿がぜひ見たいものだ」と書いた気持ちも分からないでもありません。この問題を解決するには、『三四郎』の原稿を直接確認するしかないでしょう。
幸い、『三四郎』のオリジナル原稿は現存しており、天理大学付属の天理図書館が所蔵しています。これで、「蜂のために蜜を」なのか「蜂のためた蜜を」なのかがはっきりします。天理図書館の協力によって分かったことは、漱石の自筆原稿では、ルビつきで「蜂の爲に蜜を」だったということです。「為」ですから、しかもルビまで振っていますから、「貯めた」になる余地はありません。
三四郎の家の小作人新蔵が「蜂のために」蜜を切り取っていた理由はよく分かりませんが、三四郎の話の中ではそうだったようです。さて、改ざんまで行い自説にこだわった渡辺孝ですが、氏の残した負の遺産(デタラメな情報、歴史の改ざん)は日本の養蜂界に多く残ったままです。それらは一つずつ改めていかなければなりません。