2024-01-19

『延喜式』や『小右記』の度量衡とマルハナバチの蜂蜜について

平安時代の、『延喜式』の「諸国年料供進」には「甲斐国一升、相摸国一升、信濃国二升、能登国一升五合、越中国一升五合、備中国一升、備後国二升」、『小右記』には「二合」と書かれています。

注意しなければならない点ですが、平安時代の「合」や「升」は現代のものと同じではありません。「升」を見て一升瓶や、「合」を見て一合枡をイメージしてはいけません。

『全訳 家蜂蓄養記』の162ページ注5にも書きましたが、平安時代の正確な「合」や「升」の量は分かっていません。それでも、現代の「合」や「升」と比べるとずっと少なかったはずです。『小右記』では「二合」の蜜を採取したとされていますが、一般に「合」とは片手ですくえる量のことですので、大した量ではなかったでしょう。

また、『延喜式』の「諸国年料供進」は貢納義務を定めたものですが、必ずしもそれが履行されていたわけではありません。年貢を課されているだけです。足りない分は別の何かで補われていたと思われます。あるいはそもそも空文化していた可能性もあります。

そもそも、「一升」とか「二升」は一群からの採取量ではありません。年貢として納める量です。何群からか掻き集めて「一升」「二升」にしたのでしょう。

なお、『小右記』の「二合」の蜜についてですが、これは1群からの採取量です。仮にこの「合」を現代と同じ量だとすると、それがニホンミツバチの蜂蜜の場合、少な過ぎるように思われます。

また、マルハナバチのことをよくご存知ないと、それから蜂蜜を採ることに疑念を抱かれるでしょうが、心配は無用です。マルハナバチは、ミツバチと比べるなら量は少ないですが、蜂蜜を貯めます。もし可能なら、マルハナバチの飼育者に問い合わせてみてください。お願いすれば、その蜂蜜を分けてくれるかも知れません。マルハナバチ蜂蜜については、公知の事実、つまりは常識なので、同書において力説はしていません。

下の論文は、18,19世紀の北欧でのマルハナバチの蜂蜜についてです。北欧と中世日本とに大きな違いはないでしょう。

ちなみに、この論文の中に、クマバチの腹を割いて蜜胃を食べる話が出ていますが、日本にもそれと同じような習慣はあったようです。

2024-01-05

日本の養蜂史を明らかにした『又続南行雑録』

『全訳 家蜂蓄養記』は、もちろんのこと久世松菴の『家蜂蓄養記』を読めますが、それだけでなく、日本の新しい養蜂史も示しています。旧養蜂史観は、今となっては見当違いの代物ではありますが、それがこれまでずっと維持されてきたのは、この『又続南行雑録』が見過ごされてきたためです。

『又続南行雑録』は、国立公文書館に所蔵されています。下のリンクからPDFをダウンロードできます。

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000051853&ID=&TYPE=

表紙のタイトルが『又続南行雑録』ではなく、『続南行雑録』になっていますが、それは両書が合綴されているからです。『又続南行雑録』は75コマ目から始まります。肝心の「熊野蜜」についての記述は92コマ目にあります。

これまで『又続南行雑録』が顧みられなかったのは、一重に、国書刊行会の『続々群書類従第三史伝』が、『続南行雑録』しか収録しなかったことにあります。翻刻・出版されないことは、古文書にとって重大な問題で、日の目を見る機会を失います。そのような古文書は、原典に直接当たるしかありません。調査も捗りません。

このとおり、『又続南行雑録』は未翻刻のため、それを見つけることは容易ではありませんでした。どこの図書館の蔵書目録を見ても、『又続南行雑録』はなかったのです。もし『又続南行雑録』があるとすれば、彰考館関連史料を保管している「徳川ミュージアム」でしたが、そこの蔵書目録においてもヒットしませんでした。

結局のところ『又続南行雑録』は、『続南行雑録』に隠れてアップロードされていました。そのため誰も気づかなかったようです。私は、『又続南行雑録』の別名が『続南行雑録』という奇妙な記述を見つけ、丹念に『続南行雑録』を読んでいったところ、『続南行雑録』に続いて『又続南行雑録』が付されていたことに気づきました。

『又続南行雑録』の「熊野蜜」の記述は知られていなかったため、初めてそれを読んだ時は俄に信じられませんでした。それでも、史料と向き合い、それの意味するところを考えた末、これまでニホンミツバチがいた根拠とされる記述を一つずつ批判的に検討していったのです。その結果が、『全訳 家蜂蓄養記』です。

さて、ビデオゲームでは、新しいアイテムを手に入れると次に進めるようになっているものですが、まさに『又続南行雑録』がそれでした。リアルな世界でもこんな事があるのです。『全訳 家蜂蓄養記』の執筆は、私にとって知的興奮に満ちた感動的な体験でした。皆さんも、『全訳 家蜂蓄養記』の第二部を読み、その感動を追体験してみてください。