2019-11-29

蜂の一刺し

養蜂を行っていると度々蜂に襲われます。もちろん、毎日刺されていては堪りませんから(と言っても毎日のように刺されていますが)、ネットのついた面布を被り、また耐刺突ゴム手袋を着けて作業を行っています。

今回は下ろし立ての手袋で柔らかかったためか、2度も刺されてしまいました。


刺しても死なないことの方が多い


写真は、針と、第7腹節の背板と腹板です。毒嚢はついていないことがわかります。針と共に外骨格が外れただけで、内臓や腹部が千切れたというわけではありません。お尻(といっても、厳密には腹部ですが)の先端のカバーが外れたといった具合です。
この写真のミツバチはお尻の先端部分の針がありません。何か(おそらくは、わたし)を刺して針を失ったのです。

「蜂は一度刺すと死ぬ」と言いますが、それは一般的にミツバチに当てはまります。針に返しがついていて、刺すと抜けなくなるからです。それでも、上の写真のとおり、浅く刺した程度では、針が外れるだけで死ぬことはありません。


刺されるとどうなるのか


蜂に刺されるとどうなるかというと、棘が刺さった時のような痛みが走ります。しかし、痛いのはその刺された瞬間だけです。その後は刺されたところが柔らかければ腫れが広がり、太った人のようになります。その浮腫のようなところは痒くなり、痒みは 2、3日の間続きます。

養蜂家はどれだけ蜂に刺されれているのかと言うと、人によってさまざまですが、わたしは数日に1度くらいのペースで刺されています。

いつも面布を被り、また耐刺突ゴム手袋を着けていますし、長袖長ズボンで作業していますが、手袋を脱いだすきに刺されたり、手袋と袖の間や、靴とズボンの間に見える靴下の上から刺されることがあります。また、ゴム手袋のゴムが剥がれた布の上から刺されこともあります。どうやら蜂は刺しやすいところを瞬間的に見分けることができるようです。

肌の上から直接刺されると大量に毒が入り腫れますが、服の上から刺された場合は毒の量も少なく、腫れの程度は大したことはありません。

また、蜂毒の反応はアレルギー反応ですが、頻繁に刺されると大して腫れなくなります。体が毒に慣れるのでしょう。アレルギー反応についてのわたしの理解とは矛盾しますが、事実なので仕方ありません。

なお、蜂に刺されて健康になるということはありません。

2019-11-22

越冬にどれだけの量の蜂蜜を必要とするのか

冬は、ビワやローズマリー等一部の植物を除いてほとんど咲きません。花のない時期、蜂たちはそれまでに蓄えていた蜂蜜でやり過ごしています。冬期のミツバチのやることといえば、巣の中で蜂蜜を食べながらおしくらまんじゅうをすることくらいです。

しかし、この蜂蜜が尽きてしまうと巣内の温度を保てずに凍死してしまいます。そのため、養蜂家は越冬用の餌まで採ってしまわないように気をつけています。

それにしても、一体どれだけの蜂蜜があれば蜂は無事に春を迎えることができるのでしょうか。養蜂書を紐解くと、越冬に関し様々な見解が述べられていますが、現代では「10枚箱1段の場合、蜂量は5、6枚以上(1万匹超)、蜜は蓋がけ蜜枠2、3枚以上とし、暖かいところに置く」とするのが一般的のようです。しかし、これはあまり意味のない指針です。

まず、地域差や年度差があります。温暖な地域や暖冬の場合は、越冬の確率は高くなりますが、年によって寒さの厳しさは変わります。これを秋の段階で正確に予想することはできません。また、早春の「寒の戻り」は凍死リスクを特に高めるもので、地域差や年度差の問題を無意味なものにしてしまいます。その他、ダニや疫病、女王蜂の健康や蜂群の勢い等、さまざまな因子も影響し合います。これらをすべて計算に入れて正確な答えを出すことはできません。

それでも貯蜜が多ければ多いほど、越冬確率が上がるのは確かです。


仮定


ここで、仮定として、まず、12月から2月までの3か月間、蜂蜜が必要だと考えましょう。3か月は約90日ですが、便宜上100日とします。

次に、蜂蜜1kgのカロリーは3000kcalとし、巣枠1つには蜂蜜が2kg蓄えられているとします。

また、蜂1匹の重さは0.1gとし、巣箱の中には1万匹の蜂がいるとします。


1万匹のミツバチが1日に必要とする蜂蜜は10g?


1匹0.1gの蜂が1万匹いるとする(5枚群相当)と、その蜂群の重さは全体で1kgとなります。この1kgの蜂が1日にどれだけの量の蜂蜜を食べるのかと言うと、おそらく10gの蜂蜜を食べているものと推定されます。

どういう計算なのかと言うと次のとおりです。すなわち、活動強度の低い体重60kgの人は1日に1800kcal消費します。体重1kgの人はいませんが、もし1kgならば1日の消費カロリーは1800kcalの60分の1、つまり30kcalですむことになります。蜂蜜は1kg3000kcalですので、その100分の1の10gで足りることになります。

巣枠一杯の蜂蜜は2kgですので、1万匹のミツバチ200日分の食料になります。巣枠1つで100日の冬を悠々乗り越えられることになります。

上の計算の問題点は、人間とミツバチの代謝量を同じに考えていること、そして巣箱の中でおしくらまんじゅうしている蜂の1日の消費カロリーを人間で言うところの低強度のものとみなしているところです。

蜂の活動の強度が高強度と考え、2倍のカロリーを消費しているのだとすると、1日の消費蜂蜜量は、10gではなく20gとなり、2kgの蜂蜜は1万匹のミツバチ100日分の食料となり、巣枠1つの蜂蜜は、冬の3か月間に必要なギリギリの量ということになります。


養蜂箱1箱あたり蜜巣枠2枚あれば必要十分


このようなことから、蜜が十分貯まった巣枠1枚以上用意していれば、箱いっぱいの蜂が越冬中に餓死することはないものと思われます。そして、この計算は、実際の経験に照らしても妥当なように思われます。

もちろん、年によって冷え込みがきつい年もあれば暖冬もありますし、冬が長引くこともあります。その他、育蜂に必要なカロリーや蜂が春到来と勘違いしてアクセルをかけるタイミングを間違えたりとさまざまな問題は起こりえます。それらを加味して、できれば2枚分の蜂蜜を用意していれば問題はないでしょう。

それでも駄目なことは起こりえます。もしそのようなことが起こるなら、それはそれで仕方のないことです。

しかし、心配しすぎることはありません。冬の間でも花が咲いていないわけではなく、また暖かい日がないわけでもありません。蜂は蜂でなんとかやって行くものです。

2019-11-15

越冬準備


ミツバチは冬眠することなく冬を越す


秋が深まり皇帝ダリアが霜で枯れる頃、いよいよミツバチは巣の中で引きこもるようになります。

冬の間引きこもっているミツバチも、風のない晴れた日には、ビワや茶、ローズマリーの花に飛ぶことがあります。それらの蜜や花粉は少しは足しにはなりますが、群れを養えるほどのものではありません。冬のミツバチは、秋までに貯めた蜂蜜に頼り、イソップの『アリとキリギリス』のアリのようにして暮らしています。


巣箱内部の保温


ミツバチは巣の中では一箇所に集まって球状になっています。幼虫や蛹がいる中心部は34℃、それ以外の周辺部においても15℃程度の温度が保たれています。エアコンやストーブはありませんから、巣内の熱源はミツバチの筋肉です。ミツバチは蜂蜜を燃料にして筋肉を動かし発熱し、巣内の温度を維持しています。

もし蜂の量と比べて巣箱が大きすぎるなら、いくら発熱しても巣内の温度を保つことはできません。また、保温のために多くの蜂蜜が消費されてしまうことになります。そのようなわけで、巣箱の空間の広さに対し一定量以上の蜂がいなければならず、できれば巣箱一杯に蜂がいるのが望ましいということになります。さらに、それらの蜂を養うことができるほど多くの蜂蜜が必要ということにもなります。

養蜂書やネットの投稿を読むとしばしば上のような説明を見かけますが、実際はそうではありません。広い空間の中で小ぢんまりとして越冬する群れもいます。蜂は蜂なりに工夫しており、空間をすべて温めるといった無謀なことはせずに、球状になりながら生存に必要な温度を保っています。

別の生き物を例にして考えてみましょう。コウモリは洞窟の天井の片隅で塊になっています。人間で言えば、体育館でおしくらまんじゅうをしているようなものです。広い空間全体を温められなくても自分たちが生きられるほどに温まることは可能なのです。

そもそも養蜂箱は造りが雑で隙間だらけです。「ミツバチはプロポリスと呼ばれる樹液や蜜蝋で隙間を詰めて巣箱をリフォームし気密性を高めているのだ」と説明されることがありますが、巣門にドアはなく、開けっ放しの状態です。どうしたところで巣箱が温室になるということはありません。


少しでも保温効率を上げるために


それでも、なるべく暖かい空気を逃さないようにするなら蜂たちの負担を下げることができます。

そこで、越冬対策として、暖かい空気を逃さないように巣枠の上に空気の層を作る布を敷き、さらにそれをEVA樹脂の断熱材で覆って蓋をしています。

非常に簡素な冬越しです。これでいくらか越冬確率は高くなるでしょう。しかし実際のところ、これすら必要ありません。


過剰な覆いは有害無益


冬越しのために、養蜂箱を何重にも覆う養蜂家もいます。しかしそのような過剰な覆いは無意味どころか有害です。

まず、蜂は呼吸していますから空気の入れ替えが必要です。もし密閉してしまうなら窒息死することになります。次に、箱の内部は結露するものなので湿気を逃す必要がありますが、過剰な覆いはそれを妨げてしまいます。

何よりも問題なことに、昼間直射日光が当たると内部の温度は冬でも夏並みになってしまいます。その割に日が沈むと外気温と変わらないほどにまで下がってしまいます。コストも保管場所もかかる過剰な覆いは必要ありません。

越冬の決め手は、保温のための覆いではなく蜂蜜の量にあります。

2019-11-08

ハチはなぜ大量死したのか--オオスズメバチ被害


10月29日に雨が降り気温ぐっとが下がりましたが、その日を境にオオスズメバチはほとんど来なくなりました。

雨で気温が下がったその日は一匹も来ず、その翌日からは一、二匹程度になり、その傾向は続いています。このように襲撃行動に変化があったのはオオスズメバチだけではありません。キイロスズメバチやコガタスズメバチもほとんど来なくなりました。

スズメバチがミツバチの巣を襲うのは、幼虫の餌を効率良く集めるためです。今の時期のコガタスズメバチやキイロスズメバチは、新女王蜂の育成を終えており、群れは解散状態になっているため、特にミツバチを積極的に襲う必要がありません。今来ている一部のキイロスズメバチは惰性で来ているように思われます。

オオスズメバチはまだ群れを解散させてはいないはずですが、幼虫や蛹の数は減っているものと思われます。また、先日の低温は産卵停止の切っ掛けになったのかもしれません。

幼虫の餌の必要が少なくなると、オオスズメバチはミツバチを無理に襲わなくなります。そのようなわけで、スズメバチガードを外したのですが、早速オオスズメバチの襲撃に遭ってしまいました。

全滅はしていませんが、戻ってきた外勤蜂が殺られてしまいました。結果論で言うと、外すのが少し早過ぎたということになります。12月になるまでつけているのが最も安全ですが、蜂の出入りを妨げる原因にもなっているので早く外したかったのです。
幸い、被害はそれほどではなく、群れは現状維持といったところでした。

襲撃現場に居合わせたわけではありませんが、ミツバチを襲ったのはオオスズメバチの新女王蜂だったのかもしれません。というのも、仲間を呼んだ形跡はなかったからです。働き蜂なら、巣を発見後仲間を連れて集団で襲っていたはずです。
これは昨日捕まえたオオスズメバチです。おそらく新女王蜂です。文庫本の長さは約15cmなので、このオオスズメバチは4cmほどありそうです。普段見かけるオオスズメバチよりも一回り大きく、あまりの大きさにギョッとします。

新女王は来年活躍します。今は冬眠の準備を行っており、その一環としてミツバチを襲ったのかもしれません。

2019-11-01

井ノ口の清水

都台古墳」の続きです。

現在、加古川市北部の加古川右岸周辺は「上荘」と呼ばれていますが、かつては「都染荘」と呼ばれていました。

しかし、上荘は初めから「都染荘」だったわけではありません。


都染の由来


『印南郡誌』によると、都染は元々「堤」という名前の集落でした。一般的に地名はその土地に関わる名前がつけられるものですから、加古川沿いの村を「堤」と呼ぶのは自然なことです。

さて、加古川沿いのこの一集落が、「堤」というそのものズバリの地名から「都染」という雅な地名に変えられたのは、あるエピソードに由来しています。元明天皇(707年から715年)の頃に「都の水では絹の衣を藍色にきれいに染めることができなかったため占いが行われ、その結果井ノ口の清水が藍色に染めるのに用いられるようになった」のです。

その出来事は、
あひにあふ 井の口の清水 なかりせば 都の衣 いかで染めなん
と、歌われました。


井ノ口の清水


都の衣を染めたので「都染」とは、なかなか洒落ています。歌によれば「井の口の清水がなければ、都(で着る上質)の衣を染めることはできない」とのことですので、上荘には、染め物に適した水が湧いていたということなのでしょう。

この清水は、深さ約60cm、1ないし2m四方ほどの自然の水溜りで、「井ノ口村の西7、800mのところにある井坂池の下の蓮池のそばにあった」と伝承されています。しかし、現在それがどれなのか、そもそも存在しているのかどうかも分かりません。「井坂池」もその下の「蓮池」も、どの池のことなのか見当がつきませんから、清水がどこにあったのか分かりません。

この伝承も、後からそれらしい湧き水を見つけて適当に比定しただけなのかも知れません。 1300年も昔の話ですから、それが現代まで正確に伝えられていると期待すべきではありません。
この写真のどこかに井ノ口の清水があったのでしょうが、どこかをそれだと特定する必要は感じません。


考察−−上荘の地名(井ノ口、井坂、見土呂、都染)は井ノ口の清水に由来している


まずは、「元明天皇」から考えてみましょう。「元明天皇の頃の都」とは一体どこのことでしょうか。藤原京(橿原市、明日香村)から平城京(奈良市)へ遷都したのは元明天皇です。そのため、どちらの都かは直ちには定まりませんが、衣を新調する必要が生じるのは遷都後のことでしょうから、「あひにあふ〜」の歌の「都」とは平城京のことだと思われます。

次に、衣を染めるのに井ノ口の井坂の水が使われたことを顕彰して「堤」の名が「都染」に改名されましたが、よく考えてみると、改名されるべきだったのは、「都染」の方ではなく、水を湧き出した「井ノ口」の方だったはずです。なぜそのようなズレが生じてしまったのでしょうか。

おそらく、上の出来事が起こるまでは、井ノ口を含む上荘全体は、加古川右岸の「堤」と大雑把に呼ばれるに過ぎないところだったのだと思われます。川以外はなにもない集落だった「堤」も、染め物に適した水が見つかったことで、その清水を中心に人の出入りが多くなり、住む人も増えていき、それに伴ってあちこちに地名がつけられていったのではないかと想像されます。

すなわち、その清水を「井」として、井の入り口付近は「井ノ口」、現在の八ツ塚山(フルーツパーク)に連なる坂を「井坂」、以前から人が集まって住んでいたところを特に限定して「都染」と呼ぶようになったのでしょう。そのため、染め物の清水は井ノ口にありながらも、そこは「都染」ではなく、特に「井ノ口」と呼ばれるようになったのではないかと想像されます。

なお、現在の井ノ口と都染の間にある見土呂は、「井」から清水が流れていたため「水泥(みどろ)」と呼ばれました。これもまた、染め物の清水に由来した地名です。古代の上荘は、井ノ口の清水を中心に村落が形成されていったと想像されます。