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今後のブログ運営について

これまで1年もの間、週1の投稿を続けることができました。

今後もブログの更新を続ける予定でいますが、持続可能なものにするためにも、これからしばらくの間は隔週で更新することにいたします。

今後もご愛読いただければ幸いです。

小野の長池と弥三郎池

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小野の北側、山裾には長池と呼ばれる上荘で2番目に大きな池(小野687)があります。これもまた、塔の池と同様、見土呂の大西知雄が中心となって造られた/改修された溜め池です。

塔の池と大西知雄

元は山の谷間にある池で灌漑には不十分だったものを大西知雄が中心となって改修し、1831年(天保元年)に完成させました。塔の池の完成が1827年(文政10年)のことなので、塔の池(上池)完成の余韻に浸る間もなく、長池改修プロジェクトが始まったのでしょう。

一連の事業は、大西知雄の篤志家としての一面を表すものであるのは間違いありませんが、同時に多くの小作地が小野や薬栗にあったことも物語っています。

弥三郎池

ところで、長池のすぐ南東に「弥三郎池」(小野字中池484)という、上荘のみならず加古川においても例外的に人名が付された小さな溜め池があります。人名が付されている場合それを顕彰して造った人に因むのが普通なので、おそらくそういうわけなのでしょうが、これについて資料はありません。

順序としては、長池が溜め池として改修された後にそれよりも小さい溜め池をわざわざ造る合理性はありませんから、弥三郎池が造られたのはそれよりも以前だったと想像されますが、これについても資料はありません。

未交尾女王蜂について

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女王蜂の交尾飛行と産卵開始に要する日数について

一般的な養蜂書を紐解くと、「女王蜂は出房(羽化)後5日頃に交尾飛行に飛んで行き、直ちに産卵を開始する」といった趣旨のことが書かれています。しかし観察していると、実際は出房から5日後に飛んでいく女王蜂は珍しく、多くの女王蜂は出房から10日ないし2週間後に飛んで行き、それからしばらくして産卵を開始しているようです。

研究者の論文を確認すると、「セイヨウミツバチの交尾飛行の開始は羽化から6日ないし11日で、交尾は7日から17日」といった趣旨のことが書かれており、上の観察と概ね一致します。

ニホンミツバチとセイヨウミツバ チの交尾時刻と交尾場所の相違

最初に紹介した一般的な養蜂書の記述は、完全な間違いではありませんが、出房から5日後に交尾し産卵を開始するとというのは、ややミスリーディングなところがあるように思います。

女王蜂が羽化してから直ちに交尾飛行に出ていかないのは、「性成熟」に時間がかかるからです。また、最短日数と最長日数に倍ほどの幅があるのは、個体差や天候によるものです。

未交尾女王蜂の末路

上の観察からも、女王蜂は羽化から2、3週間後には産卵を開始しているものですが、なかなか産卵を開始しない女王蜂もいます。産卵を開始しない原因のひとつに未交尾であることがあります。

羽(翅)やそれを動かす筋肉に問題があって飛ぶことができない女王蜂は当然に交尾することができません。また、梅雨など交尾飛行に出かけるタイミングに雨が続くと交尾の機会を逸してしまい、そのままになることもあります。

産卵しない女王蜂を飼い続けるとどうなるかというと、2か月で民である働き蜂は寿命が尽きて居なくなり、最後に王だけが残ることになります。しかし、その王も働き蜂の世話を受けられなくなるために一晩で死んでしまいます。
女王蜂が交尾しないと、群れはわずか2か月で消滅してしまうのです。

オス蜂だけを産む女王蜂

未交尾女王蜂が産卵することもあります。しかし、その女王が産む卵から出てくるのはオス蜂ばかりです。オス蜂は蜜や花粉を集めに行くことはしません。また、育児や掃除といった巣内の仕事もしませんから、群れの運営に貢献することはありません。そのため、働き蜂がいなくなる時にオス蜂も共に滅びることになります。

オス蜂を産む女王蜂は、オス蜂を介して自分の遺伝子の半分を残すことに…

養蜂場ができてから-残置物

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以前、
養蜂場ができるまで--残置物
という記事で、農地に残された多くのゴミについて書いたことがあります。

養蜂場として整えるまでにあらかた処分したのですが、その後も今に至るまで、ゴミの「発掘」は続いています。積もり積もった「表土」が削れていくたびに、色々なゴミが顕わになります。
長靴のようです。
なぜこんなものが埋まっているのでしょうか。信じられません。
カルシウム入りの「HI-C リンゴりんご」は、コカ・コーラのブランド「HI-C」シリーズのラインナップのひとつで、1995年発売の商品です。
https://news.nissyoku.co.jp/news/nss-7927-0052

他にも色々出てきます。掘り出し尽くしたと思っていたビニールシートや発泡スチロールの板なども出てきます。
戦いはまだ終わりません。

全群越冬は可能か

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言うまでもなく越冬は、養蜂家にとって重要な課題の1つです。今年は暖冬のおかげもあり、蜂群喪失率は1割程度ですみました。逆に言うと、9割もの群れが「越冬」に成功したわけですが、一言に「越冬」といっても少なくとも2つの観点からの「越冬」があります。

まずは、「女王蜂を含み蜂群が生き残ることができたかどうか」という観点での越冬、そしてもうひとつは、「流蜜期に採蜜可能な群勢になるほどの蜂量が残っているかどうか」という観点での越冬です。

つまり、後者のような観点からは、仮に蜂群が無事に生き延びることができたとしても一握りほどの働き蜂しか残っていないなら、その年にその群れから蜜を採ることも、分割して増やすこともできないでしょうから、実質的には越冬に失敗したとカウントされることになります。そのような場合は、他の群れから援軍を迎えて建て直す必要があります。

それでも滅ぶよりは越冬する方がマシなので、ここでは第一義の観点からの越冬について考えることにします。

貯蜜切れ

まず、越冬中に蜜が切れたら滅びます。これを「貯蜜切れ」といいます。エネルギーとなる蜜がないと巣内の温度を維持できず、変温動物であるミツバチは動けなくなりそのまま凍死してしまいます。この場合は、多くの蜂が空になった蜜房に頭を突っ込んだまま死ぬことになり、その様は見るに耐えない悲惨なものになります。

このような餓死は自然状態でも生じえます。群れが十分の蜜を集めていなかったり、秋季に十分花が咲かなかったり、冬が長く、または冷え込みが強かったり、寄生虫や病気といった、自然の気まぐれによって生じることがあります。

飼育下のミツバチの場合は、主に蜜を取りすぎた場合に起こりえます。蜂群の凍死は、貪欲に搾取した報いと言うことができます。

それでも飼育下にあるミツバチには秋季の段階に砂糖水を給餌しておくことができますし、また定期的に巣箱を持ち上げて残りの蜜の量を量り、軽すぎるようなら冬季でも緊急的に給餌することもできます。

このようなわけで、飼育群が凍死するのは、養蜂家が貪欲だったか、蜂群れの状況を把握することを怠っていたか、やるべきことをやっていなかったということを意味します。要するに、養蜂家として恥ずかしい失敗を犯したということです

盗蜂

十分の蜜を残しておく/与えるといったやるべきことを行っていても越冬に失敗することがあります。そ…

塔の池と大西知雄

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塔の定義

都台北公園の横には「塔の池(見土呂字中池837)」と呼ばれる上荘町最大の溜池があります。

子供の頃、「塔があるから『塔の池』だ」と聞かされたのですが、どこにも塔らしきものは見当たらず、あるのはお墓のようなものだけだった記憶があります。「昔には塔が建っていたが今は残っていないのだろう」と思いましたが、そのお墓のようなものが「塔」なのだそうです。

国語辞典をひくと、「塔」にはお墓のようなものも含まれています。しかし、今日では墓標のようなものを「塔」と呼ぶことはほとんどありませんから、これをもって「塔」の池とするのは分かりの良いものではありません。

上池

そのお墓のような「塔」とは、塔の池を造るのに尽力した見土呂の地主大西知雄の顕彰碑です。この顕彰碑は、池ができた時に建てられたものではなく、大西知雄の死後1856年 (安政3年)に建てられたものです。

ということは、塔の池には、塔(顕彰碑)が建っていない時代があったということです。塔が立てられていない頃の「塔の池」は「上池」と呼ばれていました。なお、そのすぐ南にある池(見土呂字下池836)は、Google mapsでは名前は出てきませんが、「下池」と言います。

上池と下池は薬栗にもありますが(上荘町薬栗字日中山西1043、上荘町薬栗字池新田1025)、見土呂の「上池」は「塔の池」と呼ばれるようになった都合上、「上池」は薬栗の上池を指すようになっています。結果的に、上荘には薬栗の下池と見土呂の下池の2つの下池があることになります。

なお、塔の池の北東にあるのは「新池」です。

大西知雄

塔の池(上池)を作ったのは誰かと言うと、その当時の地元の人々でしたが、その中心となったのは見土呂村の庄屋の「大西(吉兵衛)知雄」という人物です(「吉兵衛」は屋号)。

江戸時代の加古川は稲作よりも綿花栽培の方が盛んで、大西氏は仲買人から綿織物を集荷する長束木綿問屋を営んでいました。江戸時代は封建制でしたので、土地(封土)は領主(藩主等。ここでは姫路藩藩主。他にも天領、一橋領があった)の所有物で、農民は土地を所有しておらず売買はできない建前でしたが、実質的には農民間で売買は行われていました。財力のあった大西氏は、江戸時代末期(1800年頃)から地域有数の大地主となっていきました。

しかしいくら地主だと言っても、小作人が農作物を作ることができ…

夏蕎麦の発芽

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2月16日は一日中雨でしたが、翌日の17日には夏蕎麦が発芽していました。
これは、昨年蜜源植物として養蜂場で育てていた夏蕎麦からこぼれ落ちた種が発芽したものです。

夏の蜜源--夏蕎麦

昨年は3月14日に播種し、発芽したのは4月4日でしたので、1か月半も早く発芽したことになります。最近は4月並の気温の日もありましたから、無理もありません。

もう春は来ています。

みとろ姫

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見土呂の公民館の向かいにある小さな墓地には、古墳の石棺の蓋を再利用して造られた石棺仏が祀られています。その石棺仏には、曰くがあり、「みとろ姫」の碑ということになっています。

井ノ口の砦

室町時代に当時一帯を支配していた赤松氏は、井ノ口に砦を建てました。現在「みとろ荘」(上荘町井ノ口520)があるところです。

出張所ないし駐屯地のようなその砦は、井口姓を名乗る井口家治という人物が司っていました。その井口氏には娘がおり、それが石棺仏で祀られることとなった「みとろ姫」です。

なお、その井口氏の娘の本当の名前は分からないので、「みとろ」姫とされています。

悲話

ある時、赤松氏のある家来がみとろ姫に惚れたものの袖にされたことで激昂し、殺してしまうという事件が起きました。石棺仏はその事件の慰霊碑として作られ祀られるようになりました。

石棺仏の立て看板には、より詳細に書かれています。引用してみましょう。

当時、井口城に出入りしていた(赤松)満祐の家来の青年が、姫のあまりの美しさに一目見て心を打たれた。ある年の『月見の祝』の席でやっとの思いで姫に近づくことができ、思いを告白したが姫に申し出を断られた。それに腹を立てた青年は、姫を刺殺し裏山に埋めてしまった。しばらくしてその事実を知った民衆は、姫の死を悼み石仏を立てて奉った。

各方面に非常に配慮した穏当な書き方がされていますが、実際はそんなものではなかったのだろうと思われます。少なくとも当時生きていた人々にとっては石棺仏を作って慰霊しなければならないと思わせるほどにショッキングな事件だったと推察されます。

もっとも、確定し得ない事実を突き詰めたところで意味は乏しいので、この事実の詳細についてはこれ以上は考えません。

なぜ「『みとろ』姫」なのか

この事件の被害者の井口氏の娘の名前は分かりません。当時の女性の名前が明らかになることは例外的なことだったからです。まして、一派出所の長の娘の名前が残ることはありえません。そのため、地名を冠し「みとろ姫」としているわけです。

(なお、立て看板は、「見土呂」という地名は井口氏の娘の名前に由来していると解説していますが、これは順序が逆で誤りです)

ここでのわたしの疑問は、なぜ「井口姫」ではなく「みとろ姫」なのか、です。井口氏の娘ですし、砦も井ノ口にあったのですから「井口姫」で良さそうなものです。

まず、…