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暖冬と梅の花

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今年の梅の花の開花

今冬は異例の暖かさで1月になっても春のように暖かい日があるくらいです。みとろフルーツパークでは13日に梅の花の開花が始まりました。


蜂たちも晴れていれば概ね外勤に出かけています。まるで越冬などしないかのようです。

暖冬は越冬に有利か?

暖冬がミツバチの越冬に有利かと言うと、一般論としては「そのとおりだ」と言えます。温暖地の方が越冬確率が高いわけですが、暖かければ消費する蜜も少なくて済み、貯蜜切れを起こすこともありません。それと同じ理屈が成り立つわけです。

しかし、ことはそう単純ではありません。蜂は蜜を吸ってから外勤に出ますが、その蜜の消費を上回る蜜を持って帰らなければ無駄に蜜を消費することとなります。冬は暖かくとも花の数は限られているため、外勤に出たとしても十分な収穫を得られず収支としてはマイナスになる、という理屈です。

養蜂を始めた当初に上のような説明をどこかで読んだ覚えがあるのですが、今のわたしはそれに懐疑的です。

意外に多い冬の蜜源植物

まず、ミツバチは蜜を無駄に探し回ることはしません。まずは斥候隊/先発隊を派遣し、それの報告を受けて初めて本隊を出動させます。

次に冬でも意外と蜜源はあるものです。主に、ビワ、ローズマリー、ヤツデ、チャなどがあります。最も寒い頃には梅が咲き始めます。

このようなわけで、空振りの外勤蜂が蜜を無駄に消費するという事実はないわけです。

寒の戻り

それでも、蜂が春が到来したと勘違いし蜂児の育成を加速させ、蜜を急速に消費させてしまうことがあります。その蜜が切れたタイミングに寒の戻りがあると、春を目前にして凍死で全滅ということが起こりえます。

これは防ぎようがありません。春が到来したとの蜂の判断を覆すことはできませんし、地球的気象の変化を変えることもできません。寒の戻りに対しては十分な蜂蜜でしか対応できませんが、半年後の蜜の残量を秋の段階に予想することはできません。半年間の花の量と蜜の出ぐあい、蜂の増加量、活動量、天候等々を計算するのは無理というものです。

これについては自然に任すしかなく、できることといえば、なるべく多く蜂蜜を残しておき、また一定の確率で蜂群は失われることを弁えて蜂群を多く残しておくことくらいです。

と、悲観的なことを書きましたが、一般的には蜂の好きに任せて春を待っていれば良いだけです。梅の花が咲いてもまだ…

養蜂場ができてから-雑草対策

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原野化した農地を開墾するのは大変なことでした。

養蜂場ができるまで--開墾
養蜂場ができるまで--残置物
養蜂場ができるまで--大木の伐採

当時は無我夢中で草刈機を振り回していましたが、今から同じことをやれと言われても、とてもできそうにありません。

これらは破損していったチップソー(草刈り機の刃)です。


かなり危険な刃のこぼれ方をしていますが、幸い自分に飛んできたことはありません。破片は探しましたが、見つけ出すことはできませんでした。今もまだ見つかっていません。

効果的な雑草対策--毎日踏みしめること

一年前に更地にしましたが、元はといえば原野です。草を刈り木を倒したことで、却って日当たりがよくなり、代わる代わる草が生えてきます。月に1度のペースで草刈りを行ってきましたが、雑草の勢いを止めることは困難です。

結局のところ、定期的な草刈りよりも効果的なのは、普段から草を踏みしめておくことでした。通り道に草が伸びることはありません。

今は養蜂場をなるべく隅々まで歩き回って「雑草対策」を行っています。

上荘を分断した加古川の洪水

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上荘町は、印南郡の加古川右岸の町と思われがちですが、加古川左岸にも上荘町はあります。たとえば、JR厄神駅や国包郵便局は上荘町の一部です。上荘町は、加古川をまたいで存在しているのです。

1225年の洪水

なぜそのようになったかというと、今から800年ほど前の1225年(鎌倉時代)に洪水が起きて堤防が決壊し、加古川の流れが変わってしまったからです。

まずは、昔の加古川の流れを調べてみましょう。

この地図は、国土地理院の治水地形分類地図です。
青色の横縞が旧河道です。これをたどると、加古川が、宗佐土山線の西側を南下し、現在の八幡小学校の付近を通り、草谷川(八幡川)より北側を流れ、西条の城山北側ないし五ヶ井用水の取水口辺りを流れていたことが分かります。

現在の加古川の河道と比べるとずいぶん蛇行しています。これが1225年の洪水で真っ直ぐ流れるようになりました。

その結果がこれです。左側の赤線で囲まれたところが都染、右側が国包です。
ちなみに、1225年の洪水では加古川の南を流れていた草谷川(八幡川)も氾濫しました。

左岸の国包

国包は洪水により分断され、村の中心部が川床に沈んでしまいました。村民は、村の東側の出屋敷というところ(加古川左岸)と、西側の井ノ尻(井ノ口の東、現在の日光口)に住むようになりました。

しかしそのことが却って国包を繁栄させることになりました。左岸の国包は、有馬街道上の川渡しや、さらには加古川舟運の船着き場となり、宿や木材加工で栄えることになったのです。

現代では、左岸の国包の生活は八幡町と一体となっています。たとえば、JR厄神駅の名称は、八幡町の「宗佐厄神八幡神社」に由来していますし、また、左岸の子どもたちは、上荘小学校や両荘中学校ではなく、八幡小学校や山手中学校に通っています。

都染

加古川をまたいで存在しているのは国包だけではありません。都染もそうで、左岸にも存在します。もっとも、今は集落はないことから、都染といえば右岸の都染を指すのが一般的です。

聴診器内検

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越冬対策を済ませた養蜂箱は、特別な用でもない限り、春になるまで蓋を開けることはありません。そんなことをしても巣箱内の温度を無駄に下げるだけだからです。

冬でも風のない温かい日は蜂の出入りが観察されます。蜂が出入りしていれば群れは機能していると考えられるので一先ずは安心です。また、元気な群れなら箱に近寄ると巣門のあたりから羽音が聞こえ来たりもします。蓋を開けなくても中の様子を推察することは可能です。

しかし、蜂数が少ない弱群の場合は、蜂の出入りは見られず、羽音も聞こえてきません。凍えていないか心配になります。蓋を開けずに中の様子を知る方法はないものでしょうか?そこで、聴診器を当ててみることにしました。
これは医療用の聴診器ではなく、工業用の聴診器です。機械が正常に動作しているか、異音を発生させたりしていないかを知るための道具です。これを巣箱の側面や蓋、窓、ネジなどに当てると内部の音を容易に聞き取ることができます。

もちろん、聴診器を当てても中を見ることができるわけではありません。音の大きさが分かる程度で、そこから中の様子を想像するに過ぎません。それでも、少しは察することができます。養蜂箱の中で蜂たちは寒さのためにかたまって震えていそうなものですが、意外と動き回っていることがわかります。

蜂の数が多ければ羽音は大きく、少なければ小さくなります。もの音一つ聞こえなければ、それは貯蜜切れ等で凍死しているか、その寸前です。

分蜂の恐れのない群れを音の大きさや羽音の様子で内検を済ませられるようになれば、作業の効率を上げられるかもしれません。今後の課題です。

上荘・平荘地区における「小中一貫校構想」について

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12月9日付の神戸新聞によると、加古川市は、上荘町および平荘町の小学校を廃止して両荘中学校に「一貫校」を置くことを検討しているとのことです。この「提案」と称する通告のような「小中一貫校」構想は、児童の学力向上を目指したというよりはむしろ、加古川市の財政問題の一環のようです。
現在の両荘中学校に平荘・上荘の両小学校が収容されることで、平荘町の小学生のほとんどが800メートルほど余計に、しかもトラックが往来する歩道のない危険な道を通わなければならなくなります。上荘町の小学生は学校が近くなる児童もいますが、今よりも1700メートルほど遠くなる児童もいます。低学年や体の弱い児童にとってこの「改革」は過酷なことのように思えます。
兵庫県加古川市は9日、同市の両荘地域で小中一貫校を検討しており、地元住民との意見交換の中で「施設一体型」を提案したことを明らかにした。一貫校は現両荘中学校に置くことを想定し、実現すれば平荘と上荘の2小学校は現在の場所からなくなる。https://www.kobe-np.co.jp/news/touban/201912/0012946556.shtml

上荘における小学校の所在地の変遷について

さてここで、上荘町の小学校の所在地の歴史を考えることにしましょう。1872年(明治5年)の学制発布を受け、現在の上荘町の各地で小学校が続々と設立されました。

1872年(明治5年)には、薬栗・小野の児童のための「巌上(いわお)小学校」が長慶寺に、井ノ口・見土呂・都染の児童のための「教育小学校」が見土呂に、1874年(明治7年)には、「国包小学校」が川東の国包に創立されました。

「これらの小学校が1903年に統合して上荘尋常小学校になったのだ」と言えると簡単なのですが、実はそうではありません。

薬栗・小野の「巌上小学校」は、1875年(明治8年)に廃止され、神木の「化成小学校」に併合されました。その「化成小学校」は、1877年(明治10年)に新築を機に山角へ移転され「平荘小学校」となりました。一方で、井ノ口・見土呂・都染の「教育小学校」は、1875年の新築を機に「髻峰(きっぽう)小学校」として再出発しました。

その後、平荘小学校髻峰小学校は志方の倉北小学校の分校と位置づけられたり(1884年(明治17年))、翌年には独立したり(髻峰小学校平荘小学校の分校との位置…

温湿度計による巣箱内温度のモニタリング

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今年も高温が続き秋らしくない秋でしたが、12月を前にして突然寒波が訪れました。今では毎日霜が降っています。おかげで皇帝ダリアもエンジェル・トランペットも萎れてしまいました。

このような中、蜂たちは厚さ1.5cmほどの板でできた養蜂箱の中にこもっています。それにしても蜂たちは、寒さのために凍えてしまうことはないのでしょうか。

そこで、巣箱内部の温度がどうなっているのか、デジタル温湿度計を使って計ってみることにしました。

下の写真のデジタル温湿度計はSwitchbotと言う商品で、Bluetooth通信でログを取り出すことができます。わざわざ蓋を開けなくても、近くでスマホを操作して巣内の今と過去の温度(と湿度)を知ることができます。
温湿度計は巣枠の上に置きました。蜂球の温度までは分かりませんが、上に逃げた空気の温度は分かります。

巣箱内の温度の記録を取ったのは、11月末の寒波がやってきた3日間(11/27 14:00 -- 11/30 13:00)です。そのデータをグラフにしたのがこれです。
28日から29日にかけては養蜂場を(というか日本列島を)寒気が襲い、明け方には1、2℃程度まで下がっています。それでも、巣箱の室温は10℃程度まで維持されています。これは巣箱の上の方の温度なので、蜂球部分はもっと暖かったはずです。

また、29日の昼の外気温は12.5℃と低めでしたが、日が照ったおかげで巣箱内部の温度は26.3℃まで上昇しています。巣箱の中は十分に暖かったことが分かります。

以上から、巣箱内の温度は外気の影響を受けるものの、外気よりも概ね10℃ほど高いことがわかります。人間の家よりも暖かいくらいです。「寒さのために蜂たちが凍えてしまう」というのは心配のし過ぎでした。

巣内の熱の源は蜂蜜です。蜂たちにとって蜂蜜はウォッカのようなものなのでしょう。蜂蜜がある限り、氷点下でも蜂たちはなんとか凌ぐはずです。蜂蜜が尽きないことを祈るばかりです。

日光山の常楽寺は法道仙人が開いたのか

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加古川の最果て上荘の片隅は上荘の中でも特に人通りが少ないところで、主に霊園や斎場に用のある人が行き来する程度です。その界隈に、常楽寺という寺があります。
長く上荘に住みながらも霊園・斎場方面には疎く、常楽寺についてはほとんど何も知らず何も考えずに暮らしてきました。しかし、上荘の歴史を考える上で避けては通れないようです。

法道仙人

常楽寺は、法道仙人が開いたということになっています。法道仙人とは、7世紀半ばにインドから日本に渡ってきて仏教を広めた僧で、加西を中心に活動し播磨の山々に仏教の寺院(山岳寺院)を興して行ったとされています。

そのため、播磨地域では伝説的人物となっており、たとえば加古川市と高砂市にある米田町の名称や、志方町の投松(なげまつ)の由来譚に登場したりしています。法道仙人は超能力者として描かれることが多く、空を飛んだり、托鉢の鉄の器を飛ばしてお金や食べ物を恵んでもらったり、あるいは、その空飛ぶ器で必要な人々に施しを行ったりと、さまざまな奇跡を行ったとされています。

さて、もし常楽寺が本当に「法道仙人開基」の寺ならば、7世紀後半からあったことになります。しかし、それを証明する客観的な証拠はありません。寺が自らの開基をそうだと主張しているだけです。もっともこれは常楽寺に限ったことではなく、法道仙人開基を主張するすべての寺がそうです。多くの場合、寺の由来を作る時には、「有名な凄い人」と結びつけたくなるものです。そこで、「地元で最初に仏教を布教した人が開いたのだ」としたのでしょう。

そもそも法道仙人は、その伝記からも明らかなとおり実在の人物ではありませんから、日光山の常楽寺が「法道仙人開基」ということはありえません。「法道仙人開基」というのは「創建がはっきりしない」と言っているに過ぎません。

客観的な証拠

日光山常楽寺には鎌倉時代の特徴を表した石で作られた十三重塔や、室町時代の五輪塔があります。

そのようなことから、少なくとも鎌倉時代からはあったのだろうと思われます。
また、戦国時代の秀吉の三木合戦の時に焼かれたことは記録に残っているので16世紀にあったのは確かです。

状況的な証拠

話を元に戻しましょう。もし日光山常楽寺が法道仙人開基の寺ならば、7世紀後半からあったことになります。これは、井ノ口の清水で都の衣を染めたエピソードよりも半世紀ほど古いエピソードとなりま…

蜂の一刺し

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養蜂を行っていると度々蜂に襲われます。もちろん、毎日刺されていては堪りませんから(と言っても毎日のように刺されていますが)、ネットのついた面布を被り、また耐刺突ゴム手袋を着けて作業を行っています。

今回は下ろし立ての手袋で柔らかかったためか、2度も刺されてしまいました。

刺しても死なないことの方が多い

写真は、針と、第7腹節の背板と腹板です。毒嚢はついていないことがわかります。針と共に外骨格が外れただけで、内臓や腹部が千切れたというわけではありません。お尻(といっても、厳密には腹部ですが)の先端のカバーが外れたといった具合です。
この写真のミツバチはお尻の先端部分の針がありません。何か(おそらくは、わたし)を刺して針を失ったのです。

「蜂は一度刺すと死ぬ」と言いますが、それは一般的にミツバチに当てはまります。針に返しがついていて、刺すと抜けなくなるからです。それでも、上の写真のとおり、浅く刺した程度では、針が外れるだけで死ぬことはありません。

刺されるとどうなるのか

蜂に刺されるとどうなるかというと、棘が刺さった時のような痛みが走ります。しかし、痛いのはその刺された瞬間だけです。その後は刺されたところが柔らかければ腫れが広がり、太った人のようになります。その浮腫のようなところは痒くなり、痒みは 2、3日の間続きます。

養蜂家はどれだけ蜂に刺されれているのかと言うと、人によってさまざまですが、わたしは数日に1度くらいのペースで刺されています。

いつも面布を被り、また耐刺突ゴム手袋を着けていますし、長袖長ズボンで作業していますが、手袋を脱いだすきに刺されたり、手袋と袖の間や、靴とズボンの間に見える靴下の上から刺されることがあります。また、ゴム手袋のゴムが剥がれた布の上から刺されこともあります。どうやら蜂は刺しやすいところを瞬間的に見分けることができるようです。

肌の上から直接刺されると大量に毒が入り腫れますが、服の上から刺された場合は毒の量も少なく、腫れの程度は大したことはありません。

また、蜂毒の反応はアレルギー反応ですが、頻繁に刺されると大して腫れなくなります。体が毒に慣れるのでしょう。アレルギー反応についてのわたしの理解とは矛盾しますが、事実なので仕方ありません。

なお、蜂に刺されて健康になるということはありません。