2021-02-19

見土呂の大西甚一平

小野の長池と弥三郎池」の続きです。



寄生地主としての大西甚一平

大西知雄の子孫に、明治維新後に加古川財界で頭角を表した人物がいます。大西甚一平です。

松方デフレや貿易のために農産物の価格が下がり、地租改正で手に入れた土地を手放す農家が出てきました。それを買い集めて大地主になった者のことを歴史的に「寄生地主」と呼びますが、大西甚一平もそれに該たります。

大西甚一平は、1831年(天保2年)に生まれ、25歳で家督を継ぎました(1855年(安政2年))。

1885年つまり55歳の頃には、「大西家は明治18年に134町の土地を有し、当時の算定地価は8万125円余り、地租を2,003円納入する県内第4位の地主」になっていました。
(出典:角川日本地名大辞典(28)兵庫県(角川書店、1988年))

明治25年(1892年、62歳)には、播磨7郡に202町の田畑を、宅地は4町、山林は50町所有するまでになっていたとのことです(「町」の面積は、ほぼ1ha)。

俗に「他人の土地を踏まずに○○まで行くことができた」と言い伝えられています。こんな大金持ちが100年前に上荘にいたとは驚きです。


事業家としての大西甚一平

大地主と言えども、農業だけでは先行きは怪しいですから、その財力を背景に当時流行っていた「銀行」という新産業にも乗り出しました。当時は銀行や鉄道、ガス・電力などの「新しい」産業が流行っていたのです。今日のIT産業のようなものです。

甚一平が興した主な事業に、三十八銀行、加古川銀行、神栄会社、熟皮会社、大西銀行、国包銀行等があります。播磨経済の振興に一役買っていました。

この大地主・大西甚一平は、1907年(明治40年)8月5日に数え年77才で亡くなりました。


九代目大西甚一平

さて、大西甚一平は上の人物だけでなく、もうひとりいます。大西甚一平を襲名した次男の勘治も「大西甚一平」です。みとろ苑を築造したり、加古川ゴルフ倶楽部に土地を提供した大西甚一平は、この九代目の方の大西甚一平です。

「九代目」の大西甚一平(勘治)は1872年(明治3年)生まれました。
http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-2892

1901年(明治34年)に家督を相続し、土地だけなく銀行等会社も引き継ぎましたが、初代のような財界人と言うよりは、地域と共に生きる篤農といった具合だったようです。そのことは『昭和の義農』(山崎延吉 著、集文館、1942年)の「御奉公一念の大地主大西甚一平君」に書かれています。

みとろ苑の築造は、冨貴者の贅と言うよりはむしろ救荒の一環だったようで、1918年(大正7年)に完成しました。現在は料亭になっています。

井ノ口にある加古川ゴルフ倶楽部は、昭和31年から会員の募集をはじめましたが、元は大西甚一平所有の農場でした。

2021-02-05

冬の蜜源植物 ローズマリー

非常に早い梅の開花」の続きです。

昨年の冬はまれに見る暖冬で、皇帝ダリアもエンジェルトランペットも年明け後かなり長く咲き続けました。しかし今年はあっという間に枯れてしまいました。ラニーニャ現象による寒さのためです。
こんな寒い日でも晴れの日には蜂は偵察や採餌に出かけます。あたりを見回しても枯れ草ばかりの中どこへいっているのか不思議ですが、ローズマリーに行っているのは確かです。

ローズマリーはシソ科の常緑低木樹です。秋から春にかけて、特に冬の間に小さな花を咲かせて蜜を提供してくれる珍しい植物です。
ローズマリーは、生け垣などに用いられることが多く、上荘に限らずどこでもよく見かけます。

一昨年末、自宅のローズマリーから穂を取り、挿し木を作りました。
3か月後にはポットの底まで根が伸びていましたので定植することにしました。
定植直後の様子です。
10か月後の今では高さ30cmほどに成長しています。
今年はまだどれも花はつけていませんが、来年には咲いてくれるでしょう。

ローズマリーの定植は冬の蜜源になることを目的にしていますが、夏には穂を入れてダニ駆除効果があるのかどうかも試してみるつもりです。