2020-02-28

塔の池と大西知雄

みとろ姫」の続きです。


塔の定義


都台北公園の横には「塔の池(見土呂字中池837)」と呼ばれる上荘町最大の溜池があります。

子供の頃、「塔があるから『塔の池』だ」と聞かされたのですが、どこにも塔らしきものは見当たらず、あるのはお墓のようなものだけだった記憶があります。「昔には塔が建っていたが今は残っていないのだろう」と思いましたが、そのお墓のようなものが「塔」なのだそうです。

国語辞典をひくと、「塔」にはお墓のようなものも含まれています。しかし、今日では墓標のようなものを「塔」と呼ぶことはほとんどありませんから、これをもって「塔」の池とするのは分かりの良いものではありません。


上池


そのお墓のような「塔」とは、塔の池を造るのに尽力した見土呂の地主大西知雄の顕彰碑です。この顕彰碑は、池ができた時に建てられたものではなく、大西知雄の死後1856年 (安政3年)に建てられたものです。

ということは、塔の池には、塔(顕彰碑)が建っていない時代があったということです。塔が立てられていない頃の「塔の池」は「上池」と呼ばれていました。なお、そのすぐ南にある池(見土呂字下池836)は、Google mapsでは名前は出てきませんが、「下池」と言います。

上池と下池は薬栗にもありますが(上荘町薬栗字日中山西1043、上荘町薬栗字池新田1025)、見土呂の「上池」は「塔の池」と呼ばれるようになった都合上、「上池」は薬栗の上池を指すようになっています。結果的に、上荘には薬栗の下池と見土呂の下池の2つの下池があることになります。

なお、塔の池の北東にあるのは「新池」です。


大西知雄


塔の池(上池)を作ったのは誰かと言うと、その当時の地元の人々でしたが、その中心となったのは見土呂村の庄屋の「大西(吉兵衛)知雄」という人物です(「吉兵衛」は屋号)。

江戸時代の加古川は稲作よりも綿花栽培の方が盛んで、大西氏は仲買人から綿織物を集荷する長束木綿問屋を営んでいました。江戸時代は封建制でしたので、土地(封土)は領主(藩主等。ここでは姫路藩藩主。他にも天領、一橋領があった)の所有物で、農民は土地を所有しておらず売買はできない建前でしたが、実質的には農民間で売買は行われていました。財力のあった大西氏は、江戸時代末期(1800年頃)から地域有数の大地主となっていきました。

しかしいくら地主だと言っても、小作人が農作物を作ることができなければ意味がありません。大西家が所有する土地は、干害に遭いやすい高い土地も少なくありませんでした。そこで、大西知雄は、井ノ口、見土呂、都染の灌漑に資するために、大規模な溜め池(上池、後の塔の池)を造ることにしました。

それは周辺を流れる水を引く大規模な土木工事で、十数年の歳月が費やされましたが、そのおかげで井ノ口、見土呂、都染が干害で苦しむことは少なくなりました。

この溜め池築造の功績が認められ、1829年(文政12年)3月に姫路藩から租税免除、その翌年の11月には帯刀が許可されることとなりました。

その後知雄は、1831年(天保元年)には小野の長池の改修を完了させ、1841年(天保12年)1月22日に亡くなりました。この顕彰碑は1856年(安政3年)に建てられ、「塔の池」の名称の由来となりました。


顕彰碑から読み取れること


顕彰碑の碑文を書いた人物は、野之口隆正氏ですが、碑を奉納したのは、大西知雄の嫡子「大西吉兵衛親賢」、嫡孫「大西直次郎知時」、見土呂村庄屋「為平」、都染村庄屋「善兵衛」、井ノ口村庄屋「彌一郎」です。

大西吉兵衛知雄の実子が「大西吉兵衛」を名乗っているということは「大西吉兵衛」は世襲の屋号だったということが分かります。

他の各村の庄屋は名前だけですが、これは百姓には苗字がなかったためです。

見土呂村の庄屋の為平氏に苗字がありませんが、これは大西家の人物ではなかったことを意味します。大西知雄は庄屋でしたがその子が世襲しなかったことから、見土呂村では庄屋は公選制だったことが読み取れます。

小野の長池と弥三郎池」に続きます。

2020-02-21

夏蕎麦の発芽

暖冬と梅の花」の続きです。

2月16日は一日中雨でしたが、翌日の17日には夏蕎麦が発芽していました。
これは、昨年蜜源植物として養蜂場で育てていた夏蕎麦からこぼれ落ちた種が発芽したものです。

夏の蜜源--夏蕎麦

昨年は3月14日に播種し、発芽したのは4月4日でしたので、1か月半も早く発芽したことになります。最近は4月並の気温の日もありましたから、無理もありません。

もう春は来ています。

春の到来」に続きます。

2020-02-14

みとろ姫

みとろ周回コースについて」の続きです。

見土呂の公民館の向かいにある小さな墓地には、古墳の石棺の蓋を再利用して造られた石棺仏が祀られています。その石棺仏には、曰くがあり、「みとろ姫」の碑ということになっています。


井ノ口の砦


室町時代に当時一帯を支配していた赤松氏は、井ノ口に砦を建てました。現在「みとろ荘」(上荘町井ノ口520)があるところです。

出張所ないし駐屯地のようなその砦は、井口姓を名乗る井口家治という人物が司っていました。その井口氏には娘がおり、それが石棺仏で祀られることとなった「みとろ姫」です。

なお、その井口氏の娘の本当の名前は分からないので、「みとろ」姫とされています。


悲話


ある時、赤松氏のある家来がみとろ姫に惚れたものの袖にされたことで激昂し、殺してしまうという事件が起きました。石棺仏はその事件の慰霊碑として作られ祀られるようになりました。

石棺仏の立て看板には、より詳細に書かれています。引用してみましょう。

当時、井口城に出入りしていた(赤松)満祐の家来の青年が、姫のあまりの美しさに一目見て心を打たれた。ある年の『月見の祝』の席でやっとの思いで姫に近づくことができ、思いを告白したが姫に申し出を断られた。それに腹を立てた青年は、姫を刺殺し裏山に埋めてしまった。しばらくしてその事実を知った民衆は、姫の死を悼み石仏を立てて奉った。

各方面に非常に配慮した穏当な書き方がされていますが、実際はそんなものではなかったのだろうと思われます。少なくとも当時生きていた人々にとっては石棺仏を作って慰霊しなければならないと思わせるほどにショッキングな事件だったと推察されます。

もっとも、確定し得ない事実を突き詰めたところで意味は乏しいので、この事実の詳細についてはこれ以上は考えません。


なぜ「『みとろ』姫」なのか


この事件の被害者の井口氏の娘の名前は分かりません。当時の女性の名前が明らかになることは例外的なことだったからです。まして、一派出所の長の娘の名前が残ることはありえません。そのため、地名を冠し「みとろ姫」としているわけです。

(なお、立て看板は、「見土呂」という地名は井口氏の娘の名前に由来していると解説していますが、これは順序が逆で誤りです)

ここでのわたしの疑問は、なぜ「井口姫」ではなく「みとろ姫」なのか、です。井口氏の娘ですし、砦も井ノ口にあったのですから「井口姫」で良さそうなものです。

まず、「みとろ姫」は「つそめ姫」とは呼ばれませんでした。また、「さかもと姫」とも呼ばれていません(かつて見土呂の北、井坂の手前は「坂元」と呼ばれていました。今はその地名は残っていません)これは位置的・距離的な問題で、都染とは物理的な距離があっただけでなく心理的にも離れていますが、見土呂からは見える範囲にあるので、物理的にも心理的にも近しく感じられたのだと思われます。

次に、「井ノ口の清水」で「都染」に改称されたのは現在の「井ノ口」ではなくかつての「堤」でした。これは、かつての井ノ口よりも堤の方が地域の中心だったことを示唆しています。同じように、井ノ口に砦が作られ事件が起きた頃は(現在もそうですが)、井ノ口よりも水泥(現在の見土呂)の方が人口が多かったのだと思われます。砦は見土呂の東端すぐ近くにあり見土呂の延長と捉えることもできますし、また井口氏の生活の実態や本拠は見土呂にあった可能性もあります。

そのような事情から、碑は見土呂の墓地に建てられ、井口氏の娘は「みとろ姫」と呼ばれることになったのだと想像されます。

塔の池と大西知雄」に続きます。

2020-02-07

養蜂家になるとはどういうことか

養蜂家になるとはどういうことなのでしょうか。ミツバチを飼えばそれで養蜂家なのでしょうか。ミツバチが好きならそれで養蜂家になれるのでしょうか。


ミツバチは自分ひとりだけで飼っているわけではない


わたしは「責任を持ってミツバチを飼育している人」が養蜂家だと考えています。誰でも犬を飼うことができるように、ミツバチも誰もが飼うことができます。それでも、たとえば犬の場合、狂犬病やその他の予防接種をせずに、放し飼いで、しかもキャパシティを超えた多頭飼育をしているなら、それは犬を飼っているとは言えません。むしろ「犬を虐待している」と言えるでしょう。

また、地域で犬を飼っているのは自分ひとりだけということはありえません。近隣の他の人々も飼っているものです。そのような人々のことを無視して独りよがりな飼い方をしていては、それは犬飼い人ではなく、ただの近所迷惑な鼻つまみ者です。

同じことがミツバチの飼育にも言えます。多群のため管理しきれず分蜂を許すなら、どこかで分蜂騒ぎを起こすことになります。分蜂群が飛来した家の人は生きた心地がしないことでしょう。

家畜保健衛生所が実施するふそ病検査を怠っている者や、飼育環境を不潔にしたまま顧みない者、法定伝染病や届出伝染病の感染を確認しても管轄の家畜保健衛生所に報告しない者は、近隣のミツバチに疫病を蔓延させることになります。そのような他の養蜂家を尊重しない者に養蜂家の資格はありません。

こうした問題があるため、養蜂家は地域の養蜂家同士で情報交換を行う必要があります。わたしは情報交換したり、サポートやアドバイスを行うことはやぶさかではありませんし、実際これまでそうしたことを行ってきました。

それでも、養蜂場にゴミを落としたり、養蜂箱に腰を掛けたりするような常識の欠けた人、また友人や家族を侮辱するような礼節を欠く人は養蜂を行う以前のご無用な方なので、お断りさせて頂いています。


学び続ける責任


犬博士にならなくても犬を飼うことはできますが、それでも最低限のことは知っていなければなりません。ミツバチの場合も、放っていても蜂自身がなんとかやっているものですが、放任飼育ではいずれ滅んでしまいます。責任を持ったミツバチの飼育には、勉強が欠かせません。

そもそも、ミツバチは、「養蜂」という語があるように、ペットというよりはむしろ家畜です。愛玩目的や趣味で犬や猫を飼うのとは異なります。

では現在、標準的な飼育方法があるのかというと、「ある」と言っても間違いとまではいえませんが、それでも十分蜂のことが明らかになっているわけではありません。今やっていることが、果たして正しいのか間違っているのか、確たることは言えません。人類が新たなウィルスにさらされて滅びる可能性があるように、ミツバチも未知の疫病と戦っています。

このような問題を解明しようと世界中の研究者らが取り組んでいます。その成果は論文の形で、あるいは書籍の形で発表されています。もし責任を持ったミツバチの飼育を行いたいなら、彼ら/彼女らの研究の成果についていく必要があります。

なぜこのような当たり前のことを書くのかと言うと、インターネットを閲覧して理解した気になっている養蜂家が少なからずいるからです。

署名入りの記事は別として、インターネット上の情報は噂話や願望の域を出ない断片的で不正確なものが少なくありません。実際のところ、ミツバチに関しては間違った情報が流布しているのが現実で、そのような神話的な/幻想的なミツバチ観から抜け出せていない養蜂家もいます。

概して養蜂家による特殊な私見は、間違っているか、少なくともその養蜂家のその地域でしか役に立たないようなものしかありません。それなのに不勉強な養蜂家は、「学者が著したものにも誤りがある」と言って学ぶことを怠っています。都合の良い情報を取り入れるだけでは学んでいるとは言えません。

どれだけ割り引いてみても、勉強量、知識量、観察眼、実験装置、コミュニティの学識水準において、一般の養蜂家が研究者に勝っているところはありません。「養蜂家」になりたいのなら、思い上がることなく謙虚に学んでいく姿勢が不可欠です。


安全な蜂蜜を提供する責任


蜂蜜を販売しているプロ養蜂家は、養蜂家全体で考えればそれほど多いわけではなく、多くの養蜂家は、採取した蜂蜜は自家消費に回し、流通させることはないと思われます。それでも、近所の人々や知人に配ることはするでしょう。

そこで注意しなければならないのが、「蜂蜜に毒が混ざらないようにする」ことです。

近頃は、ダニ駆除のためにギ酸という劇物を用いる養蜂家が現れ始めました。ギ酸は気化し、蜂蜜に吸収されます。確かにミツバチもアリの仲間でギ酸を作り出しており、蜂蜜の中にごく微量のギ酸は含まれていますが、その量はダニ駆除のために用いて吸収されたギ酸の比ではありません。

ギ酸などという毒物をいちいち用いて蜂蜜の喫食者を失明等の危険に晒す必要はありません。ダニ駆除には、有機的な方法か、動物医薬品として承認されている薬を用いるべきです。

ダニ駆除用の動物医薬品として承認されている薬に、アピスタンとアピバールがあります。両者とも採蜜期間に用いることはできません。蜂蜜に混入する恐れがあるからです。しかし、万一そのようなことがあったとしても大事に至らないように、アピスタンもアピバールも蜂蜜に残りにくくなっています。すなわち、アピスタンは脂溶性のため蜂蜜に溶け込むことはなく、また、アピバールは加水分解するので万一蜂蜜に混入しても無害化します。

しかし、それでも気をつけなければならないことがあります。アピスタンは脂溶性のため蜂蜜に溶け込むことがないとは言え、ロウでできた巣には溶け込んでいます。もし蜂蜜にこのアピスタンが溶け込んだ巣の断片、つまりは巣クズが混ざり込むなら、蜂蜜にアピスタン(フルバリネート)が入り込むことになります。

このような気づきにくい混入は、蜜の分離時に、蜜刀ではなく、フォークのような蓋かき器を使うと起こりやすくなります。もし、蜂蜜に巣クズが目立つようなら、その養蜂家は、毒の混入について無頓着と言わざるをえません。

もし「養蜂家」になりたいのなら、利益ではなく、蜂蜜の消費者の健康を最優先するべきです。