2019-12-27

聴診器内検

越冬対策を済ませた養蜂箱は、特別な用でもない限り、春になるまで蓋を開けることはありません。そんなことをしても巣箱内の温度を無駄に下げるだけだからです。

冬でも風のない温かい日は蜂の出入りが観察されます。蜂が出入りしていれば群れは機能していると考えられるので一先ずは安心です。また、元気な群れなら箱に近寄ると巣門のあたりから羽音が聞こえて来たりもします。蓋を開けなくても中の様子を推察することは可能です。

しかし、蜂数が少ない弱群の場合は、蜂の出入りは見られず、羽音も聞こえてきません。凍えていないか心配になります。蓋を開けずに中の様子を知る方法はないものでしょうか?そこで、聴診器を当ててみることにしました。
これは医療用の聴診器ではなく、工業用の聴診器です。機械が正常に動作しているか、異音を発生させたりしていないかを知るための道具です。これを巣箱の側面や蓋、窓、ネジなどに当てると内部の音を容易に聞き取ることができます。

もちろん、聴診器を当てても中を見ることができるわけではありません。音の大きさが分かる程度で、そこから中の様子を想像するに過ぎません。それでも、少しは察することができます。養蜂箱の中で蜂たちは寒さのためにかたまって震えていそうなものですが、意外と動き回っていることがわかります。

蜂の数が多ければ羽音は大きく、少なければ小さくなります。もの音一つ聞こえなければ、それは貯蜜切れ等で凍死しているか、その寸前です。

分蜂の恐れのない群れを音の大きさや羽音の様子で内検を済ませられるようになれば、作業の効率を上げられるかもしれません。今後の課題です。

「わたしの養蜂具――虫眼鏡」に続きます。

2019-12-20

上荘・平荘地区における「小中一貫校構想」について


12月9日付の神戸新聞によると、加古川市は、上荘町および平荘町の小学校を廃止して両荘中学校に「一貫校」を置くことを検討しているとのことです。この「提案」と称する通告のような「小中一貫校」構想は、児童の学力向上を目指したというよりはむしろ、加古川市の財政問題の一環のようです。
現在の両荘中学校に平荘・上荘の両小学校が収容されることで、平荘町の小学生のほとんどが800メートルほど余計に、しかもトラックが往来する歩道のない危険な道を通わなければならなくなります。上荘町の小学生は学校が近くなる児童もいますが、今よりも1700メートルほど遠くなる児童もいます。低学年や体の弱い児童にとってこの「改革」は過酷なことのように思えます。
兵庫県加古川市は9日、同市の両荘地域で小中一貫校を検討しており、地元住民との意見交換の中で「施設一体型」を提案したことを明らかにした。一貫校は現両荘中学校に置くことを想定し、実現すれば平荘と上荘の2小学校は現在の場所からなくなる。
https://www.kobe-np.co.jp/news/touban/201912/0012946556.shtml


上荘における小学校の所在地の変遷について


さてここで、上荘町の小学校の所在地の歴史を考えることにしましょう。1872年(明治5年)の学制発布を受け、現在の上荘町の各地に小学校が続々と設立されました。

1872年(明治5年)には、薬栗・小野の児童のための「巌上(いわお)小学校」が長慶寺に、井ノ口・見土呂・都染の児童のための「教育小学校」が見土呂に、1874年(明治7年)には、「国包小学校」が川東の国包に創立されました。

「これらの小学校が1903年に統合して上荘尋常小学校になったのだ」と言えると簡単なのですが、実はそうではありません。

薬栗・小野の「巌上小学校」は、1875年(明治8年)に廃止され、神木の「化成小学校」に併合されました。その「化成小学校」は、1877年(明治10年)に新築を機に山角へ移転され「平荘小学校」となりました。一方で、井ノ口・見土呂・都染の「教育小学校」は、1875年の新築を機に「髻峰(きっぽう)小学校」として再出発しました。

その後、平荘小学校髻峰小学校は志方の倉北小学校の分校と位置づけられたり(1884年(明治17年))、翌年には独立したり(髻峰小学校平荘小学校の分校との位置づけ)、翌々年(1887年(明治20年))には「山角簡易小学校」および「見土呂簡易小学校」と改称されたりと紆余曲折を経て、1891年(明治24年)に両簡易小学校は、「山角尋常小学校」に収容されることとなりました。

(『加古のながれ 上荘小学校100年の歩み 1903-2003』、加古川市立上荘小学校創立100周年記念誌編集委員会編、2004年)


1903年(明治36年)創立の荘小学校


話が複雑なのでここでまとめてみましょう。

○薬栗・小野の児童の通学先

巌上小学校@薬栗の長慶寺(1872年)→化成小学校@神木(1875年)→平荘小学校@山角(1877年

○井ノ口・見土呂・都染の児童の通学先

教育小学校@見土呂(1872年)→髻峰小学校@見土呂(1875年)→山角尋常小学校@山角(1891年

「薬栗・小野の児童は、地元で学んだのは3年ほどで、1875年以降は平荘まで通い、井ノ口・見土呂・都染の児童は20年ほどの間は見土呂に通っていましたが、1891年からは現在の平荘小学校まで通うようになった」ということです。なお、上荘村と平荘村は1889年(明治22年)に発足しています。このような越境登校は上荘尋常小学校が建てられるまで続きました。

現在都染にある上荘小学校1903年(明治36年)に建てられ、それ以来上荘村(町)の川西(加古川右岸)の児童の通学先となりました。


加古川市における「地方」の切り捨て


「116年前の子どもたちは平荘小学校まで通っていたのだから、現代の上荘の子どもたちも両荘中学校まで通え」などとは、とても言えません。時代が違い過ぎます。小学校を廃止して中学校に収容するなら加古川市の財政負担は軽減されるでしょう。しかしそれは同時に、その軽減された負担を地域の児童ら(とその家族)に転嫁させるということでもあります。

教育、特に義務教育は、機会の平等が保障されていなければなりません。財政難を理由に安易にサービスの質を落として良いものでないことは、言うまでもないことです。無論、ない袖は振れない訳ですが、教育分野に手を付けるよりも先に市がカットすべき無駄な歳出はいくらでもあります。

市が上荘、平荘から着手したのは、端的に言って両町の人口が少ないからでしょう。両町合わせて9000人にもなりません。加古川市の3%程度ですから、両町の声は届きませんし、届いたところで無視されます。

上荘町はこれまで、斎場、霊園、ゴミ埋め立て場を受け入れてきました。平荘町も、焼却場や2基ものダム(権現ダムや平荘湖は兵庫県の施設ですが)を受け入れてきています。加古川市の迷惑施設を担当し、不便を甘受しています。それに対する仕打ちがこれです。

このようでは上荘に子育て世代が住むことはないでしょう。上荘には、老人しかいなくなり、その老人さえいなくなる未来が見えます。現在、上荘町ではイノシシ対策に追われていますが、そうしているうちに市からは切り捨てられつつあります。上荘は、文字通りに加古川市の最終処分場になろうとしています。

2019-12-13

温湿度計による巣箱内温度のモニタリング

今年も高温が続き秋らしくない秋でしたが、12月を前にして突然寒波が訪れました。今では毎日霜が降っています。おかげで皇帝ダリアもエンジェル・トランペットも萎れてしまいました。

このような中、蜂たちは厚さ1.5cmほどの板でできた養蜂箱の中にこもっています。それにしても蜂たちは、寒さのために凍えてしまうことはないのでしょうか。

そこで、巣箱内部の温度がどうなっているのか、デジタル温湿度計を使って計ってみることにしました。

下の写真のデジタル温湿度計はSwitchbotと言う商品で、Bluetooth通信でログを取り出すことができます。わざわざ蓋を開けなくても、近くでスマホを操作して巣内の今と過去の温度(と湿度)を知ることができます。
温湿度計は巣枠の上に置きました。蜂球の温度までは分かりませんが、上に逃げた空気の温度は分かります。

巣箱内の温度の記録を取ったのは、11月末の寒波がやってきた3日間(11/27 14:00 -- 11/30 13:00)です。そのデータをグラフにしたのがこれです。
28日から29日にかけては養蜂場を(というか日本列島を)寒気が襲い、明け方には1、2℃程度まで下がっています。それでも、巣箱の室温は10℃程度まで維持されています。これは巣箱の上の方の温度なので、蜂球部分はもっと暖かったはずです。

また、29日の昼の外気温は12.5℃と低めでしたが、日が照ったおかげで巣箱内部の温度は26.3℃まで上昇しています。巣箱の中は十分に暖かったことが分かります。

以上から、巣箱内の温度は外気の影響を受けるものの、外気よりも概ね10℃ほど高いことがわかります。人間の家よりも暖かいくらいです。「寒さのために蜂たちが凍えてしまう」というのは心配のし過ぎでした。

巣内の熱の源は蜂蜜です。蜂たちにとって蜂蜜はウォッカのようなものなのでしょう。蜂蜜がある限り、氷点下でも蜂たちはなんとか凌ぐはずです。蜂蜜が尽きないことを祈るばかりです。

2019-12-06

日光山の常楽寺は法道仙人が開いたのか

井ノ口の清水」の続きです。

加古川の最果て上荘の片隅は上荘の中でも特に人通りが少ないところで、主に霊園や斎場に用のある人が行き来する程度です。その界隈に、常楽寺という寺があります。
長く上荘に住みながらも霊園・斎場方面には疎く、常楽寺についてはほとんど何も知らず何も考えずに暮らしてきました。しかし、上荘の歴史を考える上で避けては通れないようです。


法道仙人


常楽寺は、法道仙人が開いたということになっています。法道仙人とは、7世紀半ばにインドから日本に渡ってきて仏教を広めた僧で、加西を中心に活動し播磨の山々に仏教の寺院(山岳寺院)を興して行ったとされています。

そのため、播磨地域では伝説的人物となっており、たとえば加古川市と高砂市にある米田町の名称や、志方町の投松(なげまつ)の由来譚に登場したりしています。法道仙人は超能力者として描かれることが多く、空を飛んだり、托鉢の鉄の器を飛ばしてお金や食べ物を恵んでもらったり、あるいは、その空飛ぶ器で必要な人々に施しを行ったりと、さまざまな奇跡を行ったとされています。

さて、もし常楽寺が本当に「法道仙人開基」の寺ならば、7世紀後半からあったことになります。しかし、それを証明する客観的な証拠はありません。寺が自らの開基をそうだと主張しているだけです。もっともこれは常楽寺に限ったことではなく、法道仙人開基を主張するすべての寺がそうです。多くの場合、寺の由来を作る時には、「有名な凄い人」と結びつけたくなるものです。そこで、「地元で最初に仏教を布教した人が開いたのだ」としたのでしょう。

そもそも法道仙人は、その伝記からも明らかなとおり実在の人物ではありませんから、日光山の常楽寺が「法道仙人開基」ということはありえません。「法道仙人開基」というのは「創建がはっきりしない」と言っているに過ぎません。


客観的な証拠


日光山常楽寺には鎌倉時代の特徴を表した石で作られた十三重塔や、室町時代の五輪塔があります。

そのようなことから、少なくとも鎌倉時代からはあったのだろうと思われます。
また、戦国時代の秀吉の三木合戦の時に焼かれたことは記録に残っているので16世紀にあったのは確かです。


状況的な証拠


話を元に戻しましょう。もし日光山常楽寺が法道仙人開基の寺ならば、7世紀後半からあったことになります。これは、井ノ口の清水で都の衣を染めたエピソードよりも半世紀ほど古いエピソードとなります。

井ノ口の清水

どちらが古いとか、また古ければ古いほどありがたいと言っているのではありません。上荘が古くから人々が住む地であったことは論じるまでもありません。そもそも川の流域には人が住むものですし、実際に古墳も多数作られています。ですから、7世紀にまとまった数の人々が、上荘界隈に住んでいたとしても不思議ではなく、布教の拠点として日光山が選ばれたとしても不自然なことはありません。

しかし、もし法道仙人が布教したとされる頃に、日光山周辺に寺を作るほど多くの人が住んでいたのなら、都染と改称されたのは、堤(現在の都染)ではなく、現在の日光山周辺だったはずです。このような歴史的順序を考えるだけでも、常楽寺の開基が7世紀中頃だとするのは早すぎます。