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2025-03-14
『蜜蜂養育手引草』にまつわる話
しばしば「日本で養蜂は江戸時代に始まり、養蜂書も書かれるようになった」と解説されることがあります。その代表が久世松菴の『家蜂蓄養記』なわけですが、実際に読まれたのは木村蒹葭堂の『日本山海名産図会』の方でした。
では、ほかに養蜂書があるのかと言うと、ありません。ないと言うべきです。本草家・貝原益軒の『大和本草』は養蜂書とは呼べるほどのものではなく、概括的なものですし、農学者・大蔵永常の『広益国産考』は、なんと『日本山海名産図会』の丸写しだからです。
それなら、足利の薬商・大坂屋太助の『蜜蜂養育手引草』はどうかと言うと、これもまた『日本山海名産図会』の丸写しです。
他にも江戸時代の養蜂書はあるにはあるのですが、タイトルが違うだけで中身は『日本山海名産図会』です。あるいは、オリジナルのものでも、断片的知識が残されているくらいで、私たちがイメージする養蜂書ほどのボリュームはありません。
そのようなわけで、『日本山海名産図会』は「江戸時代に実際に読まれた養蜂書」でした。一方で、『家蜂蓄養記』は『日本山海名産図会』よりも質が高かったにも関わらず、ほとんど読まれなかったことは非常に特異なことに思えます。版本でなかったからです。現代で言えば、商業出版と同人誌の間にある歴然とした差ということでしょうか。
件の『蜜蜂養育手引草』は、富山大学附属図書館が所蔵しているものしか残っていません。執筆にあたっては、同図書館にこれの複写を依頼したところアップロードしてくださいました。富山大学まで複写の旅に行く手間が省けて大変助かりました。このように『全訳 家蜂蓄養記』の執筆は、各図書館の助けの上に成り立っているのです。
先ほど『蜜蜂養育手引草』は『日本山海名産図会』などの丸写しだと書きましたが、『広益国産考』と同様、少しはオリジナルも含まれており、口上のところには重要な情報が記されていました。大坂屋太助の時代(1815年頃)は、地元にミツバチがいなかったこと、もちろん養蜂技術について知る者もいなかったこと、著者が熊野で飼育技術を学んだ経緯などが記されています。このように『蜜蜂養育手引草』の口上は、非常に興味深い内容なので皆様も是非上のリンクからダウンロードしてご覧ください。崩し字で書かれていますけどね。
余談になりますが、この『蜜蜂養育手引草』を掲載している富山大学のレポジトリには、「木村康一先生寄贈図書」と記されています。富山医科薬科大学に直接寄贈したのは木村康一氏だということです。では、木村康一氏は誰からそれを手に入れたのかというと、それは矢野宗幹という昆虫学者からです。さらに、矢野宗幹氏が誰からそれを手に入れたのかというと、宍戸昌という著名な収集家(の相続人)からです。このような貴重図書を私蔵していては死蔵するだけなので、然るべき人物・機関に託されていったというわけです。
まとめると、富山大学(合併) ← 富山医科薬科大学 ← 木村康一 ← 矢野宗幹 ← 宍戸昌(の相続人)、という流れになります。
この宍戸昌氏から矢野宗幹氏への流れについては、「図書館雑誌 31(10)(215)」(昭和12年10月)をご覧ください。ちなみに、富山大学図書館所蔵の『家蜂蓄養記』もこれと同じ流れを辿っているはずです。
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