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ミツバチから学ぶ労働姿勢

冬に養蜂場に行っても、蜂の出入りがある巣箱は限られています。蜂の活動開始温度は7、8℃から(本格的には15℃から)なので、その程度の気温の時に見ても、蜂はほとんど飛んでいません。

貯えた蜜は減っていく一方ですから、少しでも働けるうちに働いてくれれば良いのですが、労働を強制することはできません。巣箱を叩けば蜂は出てきますが仕事をしてくれるわけではありません。養蜂家は蜂の自主性にかけるしかないのです。

蜂が活動できるほど気温が上がれば蜂は活発になりますが、一向に外勤に出ない群れもあります。そういう仕事をしない群れは駄目な群れなのでしょうか。

しびれを切らして、仕事をしていない群れを内検してみると、なんとその群れは他のよく働く群れよりも多くの貯蜜を残しており、さらには最近採ってきたと思われる新しい蜜も貯めていることが分かります。

その一見働いていないように見える群れは、四六時中働かなくても良いだけの余裕があったので、最も効率の良い時に集中して仕事をし、わたしが養蜂場に来るまでには仕事を済ませていたということなのです。

逆に言うと、わたしが養蜂場にいる時間も仕事をしている群れは、苦しいやり繰りをしているのかもしれません。人間の浅はかな観点からは、働いていれば安心し、そうでなければ不安に感じてしまいますが、蜂の労働観はそんなものではないのです。

蜂には、わたしに見られるために仕事をするなんていう考えはまったくありません。蜂にとって重要なのは効率性です。蜂は外勤担当だとしても、一斉に蜜を採りに出掛けるわけではありません。むしろ、空振りに終わる労働には積極的ではなく、蜜源を見つけた探索担当の蜂の報告を聞いて初めて外勤に出掛けます。

体長1.3cmの蜂が半径5、6kmの土地から蜜源を探し出すのです。人間で言えば半径6、700kmです。そのような広大な土地にすべての外勤蜂が当てもなく飛び出していけば大量の蜂蜜を無駄にすることになります。近くに豊富に蜜源があるなら別ですが、冬のように蜜源が限られている時期なら無駄打ちとなります。

探索蜂が理想的な蜜源を見つけ出せないような状況では、他の外勤蜂はなおさら見つけ出すことはできないでしょう。そのような非効率で愚かなことをするくらいなら、蜂は無理に働かずに蜜と体力を温存させることを選ぶのです。

蜂の働き方から、稼ぎ時にはしっかり稼ぎ、効率が低い時には無駄な労働は慎むということを学べそうです。わたしもその労働姿勢に見倣っています。

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