2024-08-02

『堅瓠集』「蜂丈人」

『堅瓠集』というのは、清の褚人穫という人物が採取した民話集です。それに収録されている「蜂丈人」は、当時の中国における養蜂を垣間見せてくれます。

これは、幕府の医官・栗本丹洲も読んでおり、その『千虫譜』に転載しています。養蜂に役立つと考えたのでしょう。

『全訳 家蜂蓄養記』の執筆に当たっては、翻訳を作って手元に置いていました。以下のとおりです。


蜂丈人

雪濤集。明高皇微行。至田舍。見一村翁。問其生庚。翁言年月日時。皆與高皇同。高皇曰。爾有子乎。曰無。有田產乎。曰無。高皇曰。然則何以自給。曰吾養蜂耳。曰爾蜂幾何。曰十五桶。高皇默念。我有京省。渠有蜂桶敵之。此年月日時相合之符。又問爾於蜂歲割蜜幾次。翁曰。春夏花多。蜂易采。蜜不難結。每月割之。秋以後花漸少。故菊花蜜不盡割。割十之三。留其七。廳蜂自啖。為卒歲計。我以春夏所割蜜。易錢帛米粟。量入為出。以糊其口。而蜂有餘蜜。得以不餒。明歲又復釀蜜。我行年五十。而恃蜂以飽。他養蜂者不然。春夏割之。即秋亦盡割之。無餘蜜。故蜂多死。今年有蜜。明年無蜜。皆莫我若也。高皇歎曰。民猶蜂也。上不務休養。竭澤取之。民安得不貧以死。民死而稅安從出。是亦不留餘蜜之類也。蜂丈人之言。可以為養民者法。


蜂の先生

雪濤(せっとう)集から。明の初代皇帝朱元璋(しゅげんしょう)が身分を隠してお忍びで農村へ行き、ある老人に会い、その生まれた日を尋ねた。老人は、生まれた年月日と時間を言ったところ、高皇帝とまったく同じだった。高皇帝は、子はいるのかと尋ねた。[老人は]いない、と答えた。農地は持っているのか[と尋ねた]。ない、と答えた。高皇帝は、それならどうやって生活しているのか、と尋ねた。私は養蜂だけだ、と答えた。あなたの蜂はどれほどなのか、と尋ねた。15群だ、と答えた。高皇帝は、黙って考えた。私は、南京に住んでいる。そこには同じだけの数の蜂箱がある。その年月日と時も一致している。また、あなたは、蜂から毎年どれくらい蜜を取っているのか、と尋ねた。老人は答えた。春や夏は花が多く、蜂は集めやすい。蜜が取れないようなことは起きにくい。毎月これ(蜂蜜)を取っている。秋以降は花が徐々に少なくなる。そのため、菊の花の蜜は全部を取るようなことはしない。十分の三を取り、七は残す。こもっている蜂自身が食べ、年間の収支を終える。私は、蜜を取る春や夏に、お金、白い絹、米、粟に交換し、収入を計算し、支出し、細々と暮らしている。しかし、蜂は余剰の蜜を持っており、それは腐らないので、翌年、再び蜜を醸すようになる。私は、いつも蜂を頼りにして50年生きてきた。ほかの養蜂家は同じではない。春も夏もこれ(蜂蜜)を取る。秋もこれを全部取る。残りの蜜はない。そのため、多くの蜂が死ぬ。その年は蜜を取れても、翌年は蜜は取れないのだ。皆が私のようではないのだ。高皇帝は、感心して言った。人民はちょうど蜂のようだ。上の者は仕事をせずに休んでいながら、尽くこれを取る。どうして人民は貧しくなって死なないことがあるだろうか。人民が死んでしまっては、どうして税を取れるだろうか。これもまた、残りの蜜を残さないのと同じことである。蜂の先生の言葉は、人民を保護するための規範にすることができる。