そもそも「漢文不要論」とは、小中高の教育において漢文を教えるべきか、教えるならどの程度教えるのか、という議論です。その極端なものは、教えるのを止めるというもので、穏当なものは、選択科目にするとか受験科目にしない、というものです。中間的なものに、細を穿つような文法教育偏重を止めるべき、というものもあります。
「漢文不要論」が唱えられる背景には、漢文の知識や素養が社会に出てから一度も役に立っておらず功利的に無意味だという問題があります。また、現代の教育カリキュラムが、ITなどかつてなかった科目が追加されてギュウギュウの状態で、優先順位の低いものを減らすかなくすしかないという現実的な問題もあります。他にも、端的に授業や試験勉強がつまらないというスチューデント・アパシーの問題もあります。背景事情は多様できりがないため、ここでは代表的なものに限って挙げています。
しばしばこのテーマに関し、「漢文を学んでいて役に立った事例があるなら挙げて欲しい」と、挑戦的な言説が発せられることがあります。そのような発言をしてしまうこと自体、視野の狭さや想像力のなさを露呈しているわけで、まともに相手にする必要もないわけですが、それに対して敢えて私は、拙著訳『全訳家蜂蓄養記』を挙げたいと思います。私のような小市民が歴史的名著の現代語訳を出せたことは、「漢文を学んでいて役に立った事例」と言えるでしょう。
さらに、私は『家蜂蓄養記』の翻訳を作成する過程で、現在「ニホンミツバチ」と呼ばれている野生のミツバチが在来種や固有種ではなく、秀吉の朝鮮出兵の時に連れられて来た外来種であることを発見・証明することができました。これも、学校教育において漢文や古文がカリキュラムに組み込まれていた結果です。このように、漢文教育も古文教育も、社会に出てから役に立つのです。そういうわけですので、今後漢文不要論の議論においては『全訳家蜂蓄養記』を、漢文教育が役に立った事例の一つとして挙げていただきたいと思います。
さてここで、日本の国語教育について意見しなければなりません。国語教育は、数学や英語ほど目的がはっきりしておらず、国語嫌いを増やすことを目的・目標にしているようにさえ感じられることが多々あります。例えば、「読書感想文」という課題は、その書き方の指導なく課せられます。技術もなく感想を捻り出させられたことで、作文に対してアレルギー反応を起こす人は少なくありません。それと同じように、古典は、文法、助動詞の活用などを、その必要性や重要性を説かずに強引な詰め込み教育が行われています。その結果が、「漢文不要論」に見られる極論や拒絶反応です。実際のところ国語の授業は、体育のマラソンや軍事教練と変わらないように思われます。国語教師は体育教師のように、単にシゴキをしたいだけのように感じられます。その上、国文学者はギルドを形成していて、内輪では互いに褒め合って盛り上がりはするものの、外部の批判には微塵も耳を傾けません。これでは誰も古典教育を擁護しなくなって当然のことです。
私は、閉鎖的な国語教育業界に助力したいとは思いません。しかし、漢文ができなければ、つい100年前にも遡れなくなり、歴史の捏造を防げなくなることは危惧しています。例えば、未だに「ニホンミツバチは太古の昔から日本にいる在来種だ」という言説を主張し続ける団体や個人がいます。そのような虚偽がまかり通らないためにも、私は『全訳家蜂蓄養記』を旗として、漢文教育の有用性を説いていきたいと考えています。