「上荘・平荘地区における「小中一貫校構想」について」の続きです。
1225年の洪水
なぜそのようになったかというと、今から800年ほど前の1225年(鎌倉時代)に洪水が起きて堤防が決壊し、加古川の流れが変わってしまったからです。
まずは、昔の加古川の流れを調べてみましょう。
この地図は、国土地理院の治水地形分類地図です。
青色の横縞が旧河道です。これをたどると、加古川が、宗佐土山線の西側を南下し、現在の八幡小学校の付近を通り、草谷川(八幡川)より北側を流れ、西条の城山北側ないし五ヶ井用水の取水口辺りを流れていたことが分かります。
現在の加古川の河道と比べるとずいぶん蛇行しています。これが1225年の洪水で真っ直ぐ流れるようになりました。
その結果がこれです。左側の赤線で囲まれたところが都染、右側が国包です。
ちなみに、1225年の洪水では加古川の南を流れていた草谷川(八幡川)も氾濫しました。
左岸の国包
国包は洪水により分断され、村の中心部が川床に沈んでしまいました。村民は、村の東側の出屋敷というところ(加古川左岸)と、西側の井ノ尻(井ノ口の東、現在の日光口)に住むようになりました。
しかしそのことが却って国包を繁栄させることになりました。左岸の国包は、有馬街道上の川渡しや、さらには加古川舟運の船着き場となり、宿や木材加工で栄えることになったのです。
現代では、左岸の国包の生活は八幡町と一体となっています。たとえば、JR厄神駅の名称は、八幡町の「宗佐厄神八幡神社」に由来していますし、また、左岸の子どもたちは、上荘小学校や両荘中学校ではなく、八幡小学校や山手中学校に通っています。
都染
加古川をまたいで存在しているのは国包だけではありません。都染もそうで、左岸にも存在します。もっとも、今は集落はないことから、都染といえば右岸の都染を指すのが一般的です。
「みとろ周回コースについて」に続きます。