井ノ口の清水

現在、加古川市北部の加古川右岸周辺は「上荘」と呼ばれていますが、かつては「都染荘」と呼ばれていました。

この「荘」は、中世の「荘園制度」に由来すると書いたことがありますがそうではなく、単に「田舎」という意味のようです。「都染荘」は誰かの所領だというわけではなく、「都染村」というニュアンスです。

しかし、上荘は初めから「都染荘」だったわけではありません。


都染の由来


『印南郡誌』によると、都染は元々「堤」という名前の集落でした。一般的に地名はその土地に関わる名前がつけられるものですから、加古川沿いの村を「堤」と呼ぶのは自然なことです。それがある時、「都染」に改名されました。元明天皇の頃です。

「元明天皇」と言ってもそれが一体誰なのかご存知の方はほとんどいないことでしょう。わたしも知りません。調べたところ、8世紀始め(707年から715年)の天皇のようです。1300年もの昔に「堤」が「都染」になったのです。

さて、加古川沿いのこの一集落が、「堤」というそのものズバリの地名から「都染」という雅な地名に変えられたのは、あるエピソードに由来しています。元明天皇の頃に「都の水では絹の衣を藍色にきれいに染めることができなかったため占いが行われ、その結果井ノ口の清水が藍色に染めるのに用いられるようになった」のです。

その出来事は、
あひにあふ 井の口の清水 なかりせば 都の衣 いかで染めなん
と、歌われました。


井ノ口の清水


都の衣を染めたので「都染」とは、なかなか洒落ています。歌によれば「井の口の清水がなければ、都(で着る上質)の衣を染めることはできない」とのことですので、上荘には、染め物に適した水が湧いていたということなのでしょう。

この清水は、深さ約60cm、1ないし2m四方ほどの自然の水溜りで、「井ノ口村の西7、800mのところにある井坂池の下の蓮池のそばにあった」と伝承されています。しかし、現在それがどれなのか、そもそも存在しているのかどうかも分かりません。「井坂池」もその下の「蓮池」も、どの池のことなのか見当がつきませんから、清水がどこにあったのか分かりません。

この伝承も、後からそれらしい湧き水を見つけて適当に比定しただけなのかも知れません。 1300年も昔の話ですから、それが現代まで正確に伝えられていると期待すべきではありません。
この写真のどこかに井ノ口の清水があったのでしょうが、どこかをそれだと特定する必要は感じません。


考察−−上荘の地名(井ノ口、井坂、見土呂、都染)は井ノ口の清水に由来している


まずは、「元明天皇」から考えてみましょう。「元明天皇の頃の都」とは一体どこのことでしょうか。藤原京(橿原市、明日香村)から平城京(奈良市)へ遷都したのは元明天皇です。そのため、どちらの都かは直ちには定まりませんが、衣を新調する必要が生じるのは遷都後のことでしょうから、「あひにあふ〜」の歌の「都」とは平城京のことだと思われます。

次に、衣を染めるのに井ノ口の井坂の水が使われたことを顕彰して、「堤」の名が「都染」に改名されましたが、よく考えてみると、改名されるべきだったのは、「都染」の方ではなく、水を湧き出した「井ノ口」の方だったはずです。なぜそのようなズレが生じてしまったのでしょうか。

おそらく、上の出来事が起こるまでは、井ノ口を含む上荘全体は、加古川右岸の「堤」と大雑把に呼ばれていたのだと思われます。川以外はなにもない集落だった「堤」も、染め物に適した水が見つかったことで、その清水を中心に人の出入りが多くなり、住む人も増えていき、それに伴ってあちこちに地名がつけられていったのではないかと想像されます。

すなわち、その清水を「井」として、井の入り口付近は「井ノ口」、現在の八ツ塚山(フルーツパーク)に連なる坂を「井坂」、以前から人が集まって住んでいたところを特に限定して「都染」と呼ぶようになったので、染め物の清水は井ノ口にありながらも、そこは「都染」ではなく、特に「井ノ口」と呼ばれるようになったのではないかと想像されます。

なお、現在の井ノ口と都染の間にある見土呂は、「井」から清水が流れていたため「水泥(みどろ)」と呼ばれたとのことです。これもまた、染め物の清水に由来した地名です。

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