「日光山の常楽寺は法道仙人が開いたのか」の続きです。
現在の両荘中学校に平荘・上荘の両小学校が収容されることで、平荘町の小学生のほとんどが800メートルほど余計に、しかもトラックが往来する歩道のない危険な道を通わなければならなくなります。上荘町の小学生は学校が近くなる児童もいますが、今よりも1700メートルほど遠くなる児童もいます。低学年や体の弱い児童にとってこの「改革」は過酷なことのように思えます。
兵庫県加古川市は9日、同市の両荘地域で小中一貫校を検討しており、地元住民との意見交換の中で「施設一体型」を提案したことを明らかにした。一貫校は現両荘中学校に置くことを想定し、実現すれば平荘と上荘の2小学校は現在の場所からなくなる。https://www.kobe-np.co.jp/news/touban/201912/0012946556.shtml
上荘における小学校の所在地の変遷について
さてここで、上荘町の小学校の所在地の歴史を考えることにしましょう。1872年(明治5年)の学制発布を受け、現在の上荘町の各地に小学校が続々と設立されました。
1872年(明治5年)には、薬栗・小野の児童のための「巌上(いわお)小学校」が長慶寺に、井ノ口・見土呂・都染の児童のための「教育小学校」が見土呂に、1874年(明治7年)には、「国包小学校」が川東の国包に創立されました。
「これらの小学校が1903年に統合して上荘尋常小学校になったのだ」と言えると簡単なのですが、実はそうではありません。
薬栗・小野の「巌上小学校」は、1875年(明治8年)に廃止され、神木の「化成小学校」に併合されました。その「化成小学校」は、1877年(明治10年)に新築を機に山角へ移転され「平荘小学校」となりました。一方で、井ノ口・見土呂・都染の「教育小学校」は、1875年の新築を機に「髻峰(きっぽう)小学校」として再出発しました。
その後、平荘小学校と髻峰小学校は志方の倉北小学校の分校と位置づけられたり(1884年(明治17年))、翌年には独立したり(髻峰小学校は平荘小学校の分校との位置づけ)、翌々年(1887年(明治20年))には「山角簡易小学校」および「見土呂簡易小学校」と改称されたりと紆余曲折を経て、1891年(明治24年)に両簡易小学校は、「山角尋常小学校」に収容されることとなりました。
(『加古のながれ 上荘小学校100年の歩み 1903-2003』、加古川市立上荘小学校創立100周年記念誌編集委員会編、2004年)
1903年(明治36年)創立の上荘小学校
話が複雑なのでここでまとめてみましょう。
○薬栗・小野の児童の通学先
巌上小学校@薬栗の長慶寺(1872年)→化成小学校@神木(1875年)→平荘小学校@山角(1877年)
○井ノ口・見土呂・都染の児童の通学先
教育小学校@見土呂(1872年)→髻峰小学校@見土呂(1875年)→山角尋常小学校@山角(1891年)
「薬栗・小野の児童は、地元で学んだのは3年ほどで、1875年以降は平荘まで通い、井ノ口・見土呂・都染の児童は20年ほどの間は見土呂に通っていましたが、1891年からは現在の平荘小学校まで通うようになった」ということです。なお、上荘村と平荘村は1889年(明治22年)に発足しています。このような越境登校は上荘尋常小学校が建てられるまで続きました。
現在都染にある上荘小学校は1903年(明治36年)に建てられ、それ以来上荘村(町)の川西(加古川右岸)の児童の通学先となりました。
加古川市における「地方」の切り捨て
「116年前の子どもたちは平荘小学校まで通っていたのだから、現代の上荘の子どもたちも両荘中学校まで通え」などとは、とても言えません。時代が違い過ぎます。小学校を廃止して中学校に収容するなら加古川市の財政負担は軽減されるでしょう。しかしそれは同時に、その軽減された負担を地域の児童ら(とその家族)に転嫁させるということでもあります。
教育、特に義務教育は、機会の平等が保障されていなければなりません。財政難を理由に安易にサービスの質を落として良いものでないことは、言うまでもないことです。無論、ない袖は振れない訳ですが、教育分野に手を付けるよりも先に市がカットすべき無駄な歳出はいくらでもあります。
市が上荘、平荘から着手したのは、端的に言って両町の人口が少ないからでしょう。両町合わせて9000人にもなりません。加古川市の3%程度ですから、両町の声は届きませんし、届いたところで無視されます。
上荘町はこれまで、斎場、霊園、ゴミ埋め立て場を受け入れてきました。平荘町も、焼却場や2基ものダム(権現ダムや平荘湖は兵庫県の施設ですが)を受け入れてきています。加古川市の迷惑施設を担当し、不便を甘受しています。それに対する仕打ちがこれです。
このようでは上荘に子育て世代が住むことはないでしょう。上荘には、老人しかいなくなり、その老人さえいなくなる未来が見えます。現在、上荘町ではイノシシ対策に追われていますが、そうしているうちに市からは切り捨てられつつあります。上荘は、文字通りに加古川市の最終処分場になろうとしています。
「上荘を分断した加古川の洪水」に続きます。