日光山の常楽寺は法道仙人が開いたのか

加古川の最果て上荘の片隅は上荘の中でも特に人通りが少ないところで、主に霊園や斎場に用のある人が行き来する程度です。その界隈に、常楽寺という寺があります。
長く上荘に住みながらも霊園・斎場方面には疎く、常楽寺についてはほとんど何も知らず何も考えずに暮らしてきました。しかし、上荘の歴史を考える上で避けては通れないようです。


法道仙人


常楽寺は、法道仙人が開いたということになっています。法道仙人とは、7世紀半ばにインドから日本に渡ってきて仏教を広めた僧で、加西を中心に活動し播磨の山々に仏教の寺院(山岳寺院)を興して行ったとされています。

そのため、播磨地域では伝説的人物となっており、たとえば加古川市と高砂市にある米田町の名称や、志方町の投松(なげまつ)の由来譚に登場したりしています。法道仙人は超能力者として描かれることが多く、空を飛んだり、托鉢の鉄の器を飛ばしてお金や食べ物を恵んでもらったり、あるいは、その空飛ぶ器で必要な人々に施しを行ったりと、さまざまな奇跡を行ったとされています。

さて、もし常楽寺が本当に「法道仙人開基」の寺ならば、7世紀後半からあったことになります。しかし、それを証明する客観的な証拠はありません。寺が自らの開基をそうだと主張しているだけです。もっともこれは常楽寺に限ったことではなく、法道仙人開基を主張するすべての寺がそうです。多くの場合、寺の由来を作る時には、「有名な凄い人」と結びつけたくなるものです。そこで、「地元で最初に仏教を布教した人が開いたのだ」としたのでしょう。

そもそも法道仙人は、その伝記からも明らかなとおり実在の人物ではありませんから、日光山の常楽寺が「法道仙人開基」ということはありえません。「法道仙人開基」というのは「創建がはっきりしない」と言っているに過ぎません。


客観的な証拠


日光山常楽寺には鎌倉時代の特徴を表した石で作られた十三重塔や、室町時代の五輪塔があります。

そのようなことから、少なくとも鎌倉時代からはあったのだろうと思われます。
また、戦国時代の秀吉の三木合戦の時に焼かれたことは記録に残っているので16世紀にあったのは確かです。


状況的な証拠


話を元に戻しましょう。もし日光山常楽寺が法道仙人開基の寺ならば、7世紀後半からあったことになります。これは、井ノ口の清水で都の衣を染めたエピソードよりも半世紀ほど古いエピソードとなります。

井ノ口の清水

どちらが古いとか、また古ければ古いほどありがたいと言っているのではありません。上荘が古くから人々が住む地であったことは論じるまでもありません。そもそも川の流域には人が住むものですし、実際に古墳も多数作られています。ですから、7世紀にまとまった数の人々が、上荘界隈に住んでいたとしても不思議ではなく、布教の拠点として日光山が選ばれたとしても不自然なことはありません。

しかし、もし法道仙人が布教したとされる頃に、日光山周辺に寺を作るほど多くの人が住んでいたのなら、都染と改称されたのは、堤(現在の都染)ではなく、現在の日光山周辺だったはずです。このような歴史的順序を考えるだけでも、常楽寺の開基が7世紀中頃だとするのは早すぎます。

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