2024-08-30

吉田宗弘氏の論文「江戸時代より前に国産蜂蜜は存在しなかったかもしれない」

これまで何度か触れてきましたが、関西大学名誉教授・吉田宗弘氏の論文「江戸時代より前に国産蜂蜜は存在しなかったかもしれない」(食生活研究2024、44巻3号、pp149-157)は、拙訳『全訳家蜂蓄養記』が提示した「ニホンミツバチ外来種説」に真っ正面から取り組んでいます。

まず吉田氏は、「もともと日本にミツバチ Apis sp. は分布しておらず、ニホンミツバチと呼ばれている種は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役、1592〜1593年)のさいに、半島から養蜂技術とともに人為的に導入されたものであるという衝撃的な説が、東によって提示された」と紹介し、次に独自に「このニホンミツバチ外来種説の妥当性を著者なりに検討し、江戸時代の蜂蜜について考察」されました。

つまり、論文「江戸時代より前に国産蜂蜜は存在しなかったかもしれない」は、私の説を題材にして、吉田氏自身が再検討するというスタイルで書かれたものです。決して全面的に私の説を受け売りするようなものではなく、各論点を吉田氏がその学識に従って批判的検討を加えたものです。

それによると、延喜式や小右記、和名類聚抄などの蜜蜂や蜂蜜は、マルハナバチやその蜜で間違いないと言うのが吉田氏の結論です。


とりわけ、私が引用していない「大同類聚方」の「須波知乃阿面」(スバチのアメ)が取り上げられています。その蜜(アメ)は、下の引用のとおり、地中から掘り出されたものです。ニホンミツバチが地中に巣を作ることなぞしないのは読者もご存知のとおりです。つまり、平安時代の蜜は、当然にマルハナバチの蜜だったのです。

さらに吉田氏は、延喜式に蜜蝋の貢納がないことの不自然さを指摘するなどし、マルハナバチ説を補強・補充されています。

-大同類聚方-

須波知乃阿面 味大尓甘久香之土中乃者八月掘出而採之無毒

スバチのアメ 味大いに甘く、香し。土中のもの、八月に掘り出してこれを採る。毒なし。

https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100113480/81?ln=ja

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もし当時の日本にニホンミツバチが存在していたのなら、わざわざ地中の巣を探して少量のマルハナバチの蜜を掘り出すようなことはしなかったでしょう。


もっとも吉田氏は、全面的に私の説を肯定している訳ではなく、朝鮮半島からの人為的な蜂群の移動には疑問を示され、昔から対馬にいたミツバチが朝鮮出兵以降に移されたのではないか、という新説を提示されました。

この点については、江戸時代には、かなりの距離の蜂群の移動の記録がありますし、明治時代初期にはアメリカから運ばれてきたくらいですから、私は朝鮮半島からの蜂群の長距離移動は可能だったと考えています。

なお、吉田氏は「ニホンミツバチ国内外来種説」という折衷説を提示されましたが、同時に、朝鮮半島から自然移入したはずの対馬のミツバチがなぜさらに南下しなかったのかは説明できないと、自然移入説の弱点を指摘されています。ハプロタイプ4のニホンミツバチが対馬に留まったまま本土に達しなかったことは不自然だ、ということです。


最後に吉田氏は、論稿の結びにおいて、「今後、様々な分野の研究者が『思い込み』を排除して、ニホンミツバチの起源を検討されることを期待したい」と、議論を発展させるよう呼びかけています。

ニホンミツバチは生物学者だけのものではありません。その起源の再検討においては、言語学者、民俗学者、考古学者、国文学者や外国の研究者など様々な分野の研究者が加わって欲しいものです。


食生活研究誌のバックナンバーは、事務局に問い合わせて取り寄せることが可能です。あるいは、所蔵している大学図書館で閲覧したり、国会図書館に複写依頼をすることもできます。読者の皆さんには是非、食生活研究誌の「江戸時代より前に国産蜂蜜は存在しなかったかもしれない」(食生活研究2024、44巻3号、pp149-157)を読んで、「衝撃的な説」の信憑性を吟味していただきたいと思っています。

http://syokuken.org/admission.html

https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=202402238444081556

https://ci.nii.ac.jp/ncid/AN0031498X?lang=ja

2024-08-16

『農家が教える 厄介な雑草の叩き方』に少し掲載されています

今月、農文協さんから『農家が教える 厄介な雑草の叩き方 スギナ、クズなど、なるほど生態とかしこい対策』が出版されました。

これは、雑誌『現代農業』に掲載された雑草防除の記事を再編集し一冊にまとめたものです。『現代農業』の読書なら、「根っこ探検隊」の記事に覚えがあろうかと思います。

私は、雑草防除について詳しくはないのですが、蜜源植物には多少の心得がありますので、写真提供という形で協力しています。

アレチウリの写真のどれかは私が撮影したものです。是非ご覧ください。

2024-08-02

『堅瓠集』「蜂丈人」

『堅瓠集』というのは、清の褚人穫という人物が採取した民話集です。それに収録されている「蜂丈人」は、当時の中国における養蜂を垣間見せてくれます。

これは、幕府の医官・栗本丹洲も読んでおり、その『千虫譜』に転載しています。養蜂に役立つと考えたのでしょう。

『全訳 家蜂蓄養記』の執筆に当たっては、翻訳を作って手元に置いていました。以下のとおりです。


蜂丈人

雪濤集。明高皇微行。至田舍。見一村翁。問其生庚。翁言年月日時。皆與高皇同。高皇曰。爾有子乎。曰無。有田產乎。曰無。高皇曰。然則何以自給。曰吾養蜂耳。曰爾蜂幾何。曰十五桶。高皇默念。我有京省。渠有蜂桶敵之。此年月日時相合之符。又問爾於蜂歲割蜜幾次。翁曰。春夏花多。蜂易采。蜜不難結。每月割之。秋以後花漸少。故菊花蜜不盡割。割十之三。留其七。廳蜂自啖。為卒歲計。我以春夏所割蜜。易錢帛米粟。量入為出。以糊其口。而蜂有餘蜜。得以不餒。明歲又復釀蜜。我行年五十。而恃蜂以飽。他養蜂者不然。春夏割之。即秋亦盡割之。無餘蜜。故蜂多死。今年有蜜。明年無蜜。皆莫我若也。高皇歎曰。民猶蜂也。上不務休養。竭澤取之。民安得不貧以死。民死而稅安從出。是亦不留餘蜜之類也。蜂丈人之言。可以為養民者法。


蜂の先生

雪濤(せっとう)集から。明の初代皇帝朱元璋(しゅげんしょう)が身分を隠してお忍びで農村へ行き、ある老人に会い、その生まれた日を尋ねた。老人は、生まれた年月日と時間を言ったところ、高皇帝とまったく同じだった。高皇帝は、子はいるのかと尋ねた。[老人は]いない、と答えた。農地は持っているのか[と尋ねた]。ない、と答えた。高皇帝は、それならどうやって生活しているのか、と尋ねた。私は養蜂だけだ、と答えた。あなたの蜂はどれほどなのか、と尋ねた。15群だ、と答えた。高皇帝は、黙って考えた。私は、南京に住んでいる。そこには同じだけの数の蜂箱がある。その年月日と時も一致している。また、あなたは、蜂から毎年どれくらい蜜を取っているのか、と尋ねた。老人は答えた。春や夏は花が多く、蜂は集めやすい。蜜が取れないようなことは起きにくい。毎月これ(蜂蜜)を取っている。秋以降は花が徐々に少なくなる。そのため、菊の花の蜜は全部を取るようなことはしない。十分の三を取り、七は残す。こもっている蜂自身が食べ、年間の収支を終える。私は、蜜を取る春や夏に、お金、白い絹、米、粟に交換し、収入を計算し、支出し、細々と暮らしている。しかし、蜂は余剰の蜜を持っており、それは腐らないので、翌年、再び蜜を醸すようになる。私は、いつも蜂を頼りにして50年生きてきた。ほかの養蜂家は同じではない。春も夏もこれ(蜂蜜)を取る。秋もこれを全部取る。残りの蜜はない。そのため、多くの蜂が死ぬ。その年は蜜を取れても、翌年は蜜は取れないのだ。皆が私のようではないのだ。高皇帝は、感心して言った。人民はちょうど蜂のようだ。上の者は仕事をせずに休んでいながら、尽くこれを取る。どうして人民は貧しくなって死なないことがあるだろうか。人民が死んでしまっては、どうして税を取れるだろうか。これもまた、残りの蜜を残さないのと同じことである。蜂の先生の言葉は、人民を保護するための規範にすることができる。