次に、表を見ていると、蜂蜜の産地は論者によって違いはあるものの、私の認識と大きく食い違っているわけでないことにも気づきました。それが、江戸時代の養蜂実態をよく表しているように思えてなりませんでした。この気づきにより、鍋島氏から岡部氏へのミツバチの贈呈という、ほとんど知られていない歴史的事実の発掘にも成功しました。
日本各地のミツバチの由来は、九州地方のミツバチは、島津義弘が連れ帰ったミツバチの子孫で、紀州と関東、四国地方のミツバチは、尾呂志孫次郎が持ち帰ったミツバチの子孫だということで、分子生物学上の知見と辻褄は合うこととなりました。しかし、石見、出雲、山城(岩国の北)などの中国地方のミツバチの由来は分からず終いでした。
戦国時代の武将・大名の吉川広家(きっかわひろいえ)は、関ヶ原の戦いの前は出雲の富田城にいましたが、関ヶ原の後には周防の岩国に移されました。これは、石見、出雲、山城(岩国の北)が江戸時代に養蜂が盛んだった地と一致します。偶然とは思えません。
広家は、朝鮮出兵時に多くの朝鮮人捕虜を連れ帰って来たとのことなので、そのうちの誰かが蜂飼いで、大隅の小川市右衛門のようにミツバチも連れて来たと予想されました。しかし思うように史料は見つかりませんでした。
「中国地方のミツバチは吉川広家由来のものだ」と言えたなら全てがスッキリするのですが、推量を書に記す訳にはいきません。そんなことをしては、根拠不明の想像が事実化してしまい、未来に禍根を残すことになります。結局時間切れとなり、推量を示すことなく出版とあいなりました。
現在、吉川広家関係の資料を保有しているのは、山口県にある岩国徴古館(いわくにちょうこかん)と、吉川資料館です。岩国徴古館は、吉川家による江戸時代の統治、岩国の行政の資料を収集しており、吉川資料館は、吉川家の古文書を収集しています。しかしながら、岩国徴古館の学芸員の教示によると、吉川広家の朝鮮出兵に関する一次史料はほとんどないそうです。連行してきた捕虜なども直接的な証拠はなく、それに基づいた翻刻資料や出版物もないとのことです。そのようなわけで、広家の朝鮮出兵時の行動などは、他の史料によるもののようです。
以上のとおり、中国地方のミツバチは吉川広家が朝鮮出兵時に連れ帰ったものとする仮説を歴史史料から証明することはできません。もちろんこの仮説自体がそもそも誤りで、別の誰か、例えば毛利氏の可能性もあります。その場合は、ないところを必死に探していただけだったことになります。
というわけで、中国地方のミツバチの由来はまだ誰も突き止めていないので、誰か詳しい人が証拠を見つけてくれることを期待しています。