細川氏といえば熊本のイメージが強いですが、豊前国(福岡県北九州あたり)の小倉にいたこともあります。その頃、寛永五(1628)年に、長崎からミツバチを取り寄せたことが、細川小倉藩『日帳』に記されています。
その内容は以下の通りです。
■寛永五年四月六日
長崎へ蜜蜂請取ノ帰路ヲ急ガシム
一、岡田 茂兵衛、長崎へ明日ミつばち取ニ被遣候、罷戻候時、海上二日参候へとの儀ニ御座候由、被申候、成ほと急キ可被申由、申候事、
■四月十四日
長崎ヨリ来ル蜜蜂ヲ花畠ニ置ク
一、長崎へミつはち取ニ被遣、今日参候由、坂崎清(成政)左衛門方ゟ被申越候、置所之儀、御花畠可然と存候、惣別はちハ花をすひ申ものにて候へ共、主居申所の花ハすひ不申由申候、又一日ニ一度宛掃除を仕ものゝ由候、幸、御花畠居申長(小堀)左衛門ニ被 仰付可然由候間、一段尤ニ存候、御花畠へ可被遣由申候事、
■五月廿四日
門司ノ山ニ蜂ヲ探索セシム
一、門司ノ山ニ、はち被成御尋させ御用ニ、御小人久四郎・九右衛門被差遣候事、
蜂蜜ヲ規矩郡奉行ニ求メシ厶
一、右同所ニて、ミつばちたつねさせ可被申旨、平井五郎兵衛方ニも申渡候事、
以上、候文のままで申し訳ないですが、4月に長崎に取りに行ったこと、持ち帰ったこと、5月には逃去されてしまったことが記されています。
ミツバチを取り寄せた/逃げられたエピソードが藩の日誌に記されていることの意味をよくよく考えるなら、当時ミツバチは、現代の我々が考えるようなものではなく、特別なものであったことが分かります。それの意味するところについては、『全訳家蜂蓄養記』の読者なら既にお分かりのことでしょう。
しかし今回は、二ホンミツバチ外来種説は脇に置いておくとして、ミツバチの引き渡し場所が長崎だったことについて想像を膨らませることにしましょう。長崎の出島は幕府の管理下にあり、1628年当時、ポルトガル人の貿易拠点でした。もしかして、岡田?茂兵衛が引き渡しを受けたミツバチとは、ポルトガル人が持ってきたセイヨウミツバチだったのでしょうか?
まあでも、当時麦わらで編んだスケップに入れたミツバチをポルトガルから無事に運べるとはとても思えないので、セイヨウミツバチだったと考えるのはやはり無理でしょう。この『日帳』の「長崎」は、大村藩のことだったと思います。大村藩は鍋島藩と同様に幕府に毎年献上していたことは、栗氏千虫譜に記されています。
さて、細川小倉藩の『日帳』の翻刻は、西日本文化協会 (1990) 『福岡県史 近世史料編 細川小倉藩(1)』に掲載されています。私はそれを岐阜県図書館で読みました。文献の収集には色々コストがかかっています。もちろん自腹です。