「みとろ周回コースについて」の続きです。
井ノ口の砦
室町時代に当時一帯を支配していた赤松氏は、井ノ口に砦を建てました。現在「みとろ荘」(上荘町井ノ口520)があるところです。
出張所ないし駐屯地のようなその砦は、井口姓を名乗る井口家治という人物が司っていました。その井口氏には娘がおり、それが石棺仏で祀られることとなった「みとろ姫」です。
なお、その井口氏の娘の本当の名前は分からないので、「みとろ」姫とされています。
悲話
ある時、赤松氏のある家来がみとろ姫に惚れたものの袖にされたことで激昂し、殺してしまうという事件が起きました。石棺仏はその事件の慰霊碑として作られ祀られるようになりました。
石棺仏の立て看板には、より詳細に書かれています。引用してみましょう。
当時、井口城に出入りしていた(赤松)満祐の家来の青年が、姫のあまりの美しさに一目見て心を打たれた。ある年の『月見の祝』の席でやっとの思いで姫に近づくことができ、思いを告白したが姫に申し出を断られた。それに腹を立てた青年は、姫を刺殺し裏山に埋めてしまった。しばらくしてその事実を知った民衆は、姫の死を悼み石仏を立てて奉った。
各方面に非常に配慮した穏当な書き方がされていますが、実際はそんなものではなかったのだろうと思われます。少なくとも当時生きていた人々にとっては石棺仏を作って慰霊しなければならないと思わせるほどにショッキングな事件だったと推察されます。
もっとも、確定し得ない事実を突き詰めたところで意味は乏しいので、この事実の詳細についてはこれ以上は考えません。
なぜ「『みとろ』姫」なのか
この事件の被害者の井口氏の娘の名前は分かりません。当時の女性の名前が明らかになることは例外的なことだったからです。まして、一派出所の長の娘の名前が残ることはありえません。そのため、地名を冠し「みとろ姫」としているわけです。
(なお、立て看板は、「見土呂」という地名は井口氏の娘の名前に由来していると解説していますが、これは順序が逆で誤りです)
ここでのわたしの疑問は、なぜ「井口姫」ではなく「みとろ姫」なのか、です。井口氏の娘ですし、砦も井ノ口にあったのですから「井口姫」で良さそうなものです。
まず、「みとろ姫」は「つそめ姫」とは呼ばれませんでした。また、「さかもと姫」とも呼ばれていません(かつて見土呂の北、井坂の手前は「坂元」と呼ばれていました。今はその地名は残っていません)これは位置的・距離的な問題で、都染とは物理的な距離があっただけでなく心理的にも離れていますが、見土呂からは見える範囲にあるので、物理的にも心理的にも近しく感じられたのだと思われます。
次に、「井ノ口の清水」で「都染」に改称されたのは現在の「井ノ口」ではなくかつての「堤」でした。これは、かつての井ノ口よりも堤の方が地域の中心だったことを示唆しています。同じように、井ノ口に砦が作られ事件が起きた頃は(現在もそうですが)、井ノ口よりも水泥(現在の見土呂)の方が人口が多かったのだと思われます。砦は見土呂の東端すぐ近くにあり見土呂の延長と捉えることもできますし、また井口氏の生活の実態や本拠は見土呂にあった可能性もあります。
そのような事情から、碑は見土呂の墓地に建てられ、井口氏の娘は「みとろ姫」と呼ばれることになったのだと想像されます。
「塔の池と大西知雄」に続きます。