塔の池と大西知雄


塔の定義


都台北公園の横には「塔の池(見土呂字中池837)」と呼ばれる上荘町最大の溜池があります。

子供の頃、「塔があるから『塔の池』だ」と聞かされたのですが、どこにも塔らしきものは見当たらず、あるのはお墓のようなものだけだった記憶があります。「昔には塔が建っていたが今は残っていないのだろう」と思いましたが、そのお墓のようなものが「塔」なのだそうです。

国語辞典をひくと、「塔」にはお墓のようなものも含まれています。しかし、今日では墓標のようなものを「塔」と呼ぶことはほとんどありませんから、これをもって「塔」の池とするのは分かりの良いものではありません。


上池


そのお墓のような「塔」とは、塔の池を造るのに尽力した見土呂の地主大西知雄の顕彰碑です。この顕彰碑は、池ができた時に建てられたものではなく、大西知雄の死後1856年 (安政3年)に建てられたものです。

ということは、塔の池には、塔(顕彰碑)が建っていない時代があったということです。塔が立てられていない頃の「塔の池」は「上池」と呼ばれていました。なお、そのすぐ南にある池(見土呂字下池836)は、Google mapsでは名前は出てきませんが、「下池」と言います。

上池と下池は薬栗にもありますが(上荘町薬栗字日中山西1043、上荘町薬栗字池新田1025)、見土呂の「上池」は「塔の池」と呼ばれるようになった都合上、「上池」は薬栗の上池を指すようになっています。結果的に、上荘には薬栗の下池と見土呂の下池の2つの下池があることになります。

なお、塔の池の北東にあるのは「新池」です。


大西知雄


塔の池(上池)を作ったのは誰かと言うと、その当時の地元の人々でしたが、その中心となったのは見土呂村の庄屋の「大西(吉兵衛)知雄」という人物です(「吉兵衛」は屋号)。

江戸時代の加古川は稲作よりも綿花栽培の方が盛んで、大西氏は仲買人から綿織物を集荷する長束木綿問屋を営んでいました。江戸時代は封建制でしたので、土地(封土)は領主(藩主等。ここでは姫路藩藩主。他にも天領、一橋領があった)の所有物で、農民は土地を所有しておらず売買はできない建前でしたが、実質的には農民間で売買は行われていました。財力のあった大西氏は、江戸時代末期(1800年頃)から地域有数の大地主となっていきました。

しかしいくら地主だと言っても、小作人が農作物を作ることができなければ意味がありません。大西家が所有する土地は、干害に遭いやすい高い土地も少なくありませんでした。そこで、大西知雄は、井ノ口、見土呂、都染の灌漑に資するために、大規模な溜め池(上池、後の塔の池)を造ることにしました。

それは周辺を流れる水を引く大規模な土木工事で、十数年の歳月が費やされましたが、そのおかげで井ノ口、見土呂、都染が干害で苦しむことは少なくなりました。

この溜め池築造の功績が認められ、1829年(文政12年)3月に姫路藩から租税免除、その翌年の11月には帯刀が許可されることとなりました。

その後知雄は、1831年(天保元年)には小野の長池の改修を完了させ、1841年(天保12年)1月22日に亡くなりました。この顕彰碑は1856年(安政3年)に建てられ、「塔の池」の名称の由来となりました。


顕彰碑から読み取れること


顕彰碑の碑文を書いた人物は、野之口隆正氏ですが、碑を奉納したのは、大西知雄の嫡子「大西吉兵衛親賢」、嫡孫「大西直次郎知時」、見土呂村庄屋「為平」、都染村庄屋「善兵衛」、井ノ口村庄屋「彌一郎」です。

大西吉兵衛知雄の実子が「大西吉兵衛」を名乗っているということは「大西吉兵衛」は世襲の屋号だったということが分かります。

他の各村の庄屋は名前だけですが、これは百姓には苗字がなかったためです。

見土呂村の庄屋の為平氏に苗字がありませんが、これは大西家の人物ではなかったことを意味します。大西知雄は庄屋でしたがその子が世襲しなかったことから、見土呂村では庄屋は公選制だったことが読み取れます。

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