2023-12-15

江戸時代にウスグロツヅリガは存在していたのか?

現在、日本には2種類のスムシ、つまりは「ハチノスツヅリガ」と「ウスグロツヅリガ」がいます。これまでの見解は、「ハチノスツヅリガは外来種でウスグロツヅリガは在来種」というもので、「江戸時代のスムシとはウスグロツヅリガだ」という意見が主流でした。

■江戸時代のスムシについての記述

しかし、拙訳『全訳 家蜂蓄養記』に説明したとおり、ハチノスツヅリガは既に江戸時代にはいました。貝原益軒『大和本草』(1709)、久世松菴『家蜂蓄養記』(1791)はもちろんのこと、水戸・徳川斉昭『景山養蜂録』(1840)、紀伊・曽和直之進『ミツバチ取伝』『蜂蜜作伝』(1860年前後)にも、スムシの有害性とその対策が記されています。そのようなわけで、江戸時代にハチノスツヅリガがいたことの証明は容易です(『全訳 家蜂蓄養記』p122〜125)。

他にも、土佐藩の役人・森勘左衛門は、1766年の『日記』に、

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八月十一日 晴天

古き蜜桶に巣虫わき、蜂桶ゟ出に付、桶を替。古桶は蜜汁を取、蜂は新桶へ移る。

※「ゟ」は「より」と読む

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と書かれています。

直接的な描写はないものの、やはりスムシのことと思われる例として、細川氏支配時代の小倉藩の1628年の『日帳』があります。それには、長崎から到着したミツバチの管理について、

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四月十四日

一、長崎へミつはち取ニ被遣、今日参候由、(中略)又一日ニ一度宛掃除を仕ものゝ由候(中略)

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と、毎日1度掃除していたことが書かれており、これはスムシ対策の実施だと見られます(『全訳 家蜂蓄養記』p173)。

このようなわけで、江戸時代にハチノスツヅリガがいたことは容易に証明できます。対して、むしろ今では江戸時代にウスグロツヅリガが存在していたことを証明する方が難しいです。

「江戸時代にウスグロツヅリガは存在していた」かどうか問われたなら、「いたと思います」と答えることはできますが、「その証拠を見せてください」と求められても、それは出せません。私たちは漠然と「江戸時代にウスグロツヅリガは存在していた」と信じているだけです。

■なぜウスグロツヅリガの存在を証明できないのか

江戸時代に「ハチノスツヅリガ」と「ウスグロツヅリガ」を区別して認識していた本草家はいませんでした。少なくとも、そのような記述は残していません。

久世松菴でさえ、2種類のスムシがいることまでは認識していませんでした。その結果、有害性の高いハチノスツヅリガの記述だけが残り、ウスグロツヅリガはその影に隠れて見えなくなっているのです。

■『家蜂蓄養記』の「小者重分、大者過寸」

「この『小者』はウスグロツヅリガで『大者』はハチノスツヅリガだ」と想像してしまうのは、今日的知見として「日本には、小型の『ウスグロツヅリガ』と大型の『ハチノスツヅリガ』という2種類のスムシがいる」という前提で見ているからです。このように発想する人は珍しくないでしょう。 

しかし、江戸時代にスムシは1種類しか認識されていなかったので、著者の久世松菴の頭の中では、「小者」は観察上の初齢幼虫で、「大者」は終齢幼虫だったはずです。そのようなわけで、「小者重分」を「小さなものは少しずつ大きくなって」と訳した次第です。

「大者過寸」は「大きなものは三センチを超える」という意味で、もちろんのこと、ハチノスツヅリガの終齢幼虫の大きさとピッタリです。

また「分」は3mmです。もし「小者」がウスグロツヅリガの標準的な幼虫の大きさを言っているのだとしたら、あまりに小さすぎます。やはり、「小者重分」をウスグロツヅリガのことだとするのには無理があります。

■今後の課題

拙訳『全訳 家蜂蓄養記』が公開されたことで、ハチノスツヅリガとウスグロツヅリガの歴史的立場が逆転してしまいました。今後は、「いつ、誰が、どのように、ウスグロツヅリガを認識し区別するようになったのか」が検討課題となることでしょう。