「心中池の謎」の続きです。
長慶寺ができるよりも遙か昔、4世紀中頃にその頂上に前方後円墳(1号墳)が造られました。その後その前方後円墳を中心に、その他円墳や方墳が6基造られました。
大陸とのつながりの可能性
それから1000数百年経った 1955年(昭和30年)、両荘中学校の地理部によって発掘が行われました。その発掘は、「長慶寺古墳を発掘して」と題する簡単な報告にまとめられましたが、専門指導者を欠いた発掘であったため、「内容は理解に苦しむところが多い」とのことです (加古川市史第四巻347-354)。
それでも、さまざまな副葬品が発掘されており、その中には「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」が含まれていました。
http://www.city.kakogawa.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/152/bunkazainews38.pdf
わたしはこの分野について専門知識も経験もないので、これについて特に述べることはしませんが、国産のものならヤマト政権とのつながりが想像されます。中国との直接の関係はなかなか想像できるものではありませんが、平荘湖に沈んだ「カンス塚古墳」から朝鮮由来の耳飾りが見つかったことを考えるなら、大陸とのつながりの可能性もゼロではないでしょう。たとえば、白沢は、朝鮮半島の新羅からやって来た渡来人が窯焼きをしていました。この内行花文鏡から、古代における国際村上荘が想像されます。
ところで、「加古川市長慶寺古墳群測量調査報告 」(武庫川女子大学紀要. (18))には、この内行花文鏡の拓本が掲載されていますが、ただそれだけの内容で、この鏡が中国(後漢)由来のものか、国産(仿製)のものかについては何ら明らかにされていません。
この武庫川女子大学の紀要は、安田博幸を始めとする大勢の人がやって来たものの、まともな測量さえ行えなかったというお粗末なもので、ほとんど内容がありません。
現況
さて、件の古墳にたどり着くのには少し苦労します。入り口がはっきりしないからです。
ここら辺から古墳にたどり着くことができます。
木をかき分けて入ると、鬱蒼とした雑木林が待っています。
長慶寺山はオオスズメバチの巣窟ですので、巣を踏んだりしないように十分注意してください。
石室のないタイプの古墳です。あるものと言えば、古墳の存在を知らせる標識のみです。
見晴らし
長慶寺山は、過去だけでなく現在も墓地となっています。小高く見晴らしが良いから墓地には打って付けなのでしょう。
長慶寺山からは加古川を見下ろすことができます。
鴨川の流れとは違って(方丈記)、古墳が造られた時代の加古川と今の時代の加古川は同じではありませんが、川を眺めることができたのは変わっていないはずです。
「天坊山古墳」に続きます。