見土呂の大西甚一平

小野の長池と弥三郎池」の続きです。



寄生地主としての大西甚一平

大西知雄の子孫に、明治維新後に加古川財界で頭角を表した人物がいます。大西甚一平です。

松方デフレや貿易のために農産物の価格が下がり、地租改正で手に入れた土地を手放す農家が出てきました。それを買い集めて大地主になった者のことを歴史的に「寄生地主」と呼びますが、大西甚一平もそれに該たります。

大西甚一平は、1831年(天保2年)に生まれ、25歳で家督を継ぎました(1855年(安政2年))。

1885年つまり55歳の頃には、「大西家は明治18年に134町の土地を有し、当時の算定地価は8万125円余り、地租を2,003円納入する県内第4位の地主」になっていました。
(出典:角川日本地名大辞典(28)兵庫県(角川書店、1988年))

明治25年(1892年、62歳)には、播磨7郡に202町の田畑を、宅地は4町、山林は50町所有するまでになっていたとのことです(「町」の面積は、ほぼ1ha)。

俗に「他人の土地を踏まずに○○まで行くことができた」と言い伝えられています。こんな大金持ちが100年前に上荘にいたとは驚きです。


事業家としての大西甚一平

大地主と言えども、農業だけでは先行きは怪しいですから、その財力を背景に当時流行っていた「銀行」という新産業にも乗り出しました。当時は銀行や鉄道、ガス・電力などの「新しい」産業が流行っていたのです。今日のIT産業のようなものです。

甚一平が興した主な事業に、三十八銀行、加古川銀行、神栄会社、熟皮会社、大西銀行、国包銀行等があります。播磨経済の振興に一役買っていました。

この大地主・大西甚一平は、1907年(明治40年)8月5日に数え年77才で亡くなりました。


二代目大西甚一平

さて、大西甚一平は上の人物だけでなく、もうひとりいます。大西甚一平を襲名した次男の勘治も「大西甚一平」です。みとろ苑を築造したり、加古川ゴルフ倶楽部に土地を提供した大西甚一平は、この二代目の方の大西甚一平です。

「二代目」の大西甚一平(勘治)は1872年(明治3年)生まれました。
http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-2892

1901年(明治34年)に家督を相続し、土地だけなく銀行等会社も引き継ぎましたが、初代のような財界人と言うよりは、地域と共に生きる篤農といった具合だったようです。そのことは『昭和の義農』(山崎延吉 著、集文館、1942年)の「御奉公一念の大地主大西甚一平君」に書かれています。

みとろ苑の築造は、冨貴者の贅と言うよりはむしろ救荒の一環だったようで、1918年(大正7年)に完成しました。現在は料亭になっています。

井ノ口にある加古川ゴルフ倶楽部は、昭和31年から会員の募集をはじめましたが、元は大西甚一平所有の農場でした。

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