2020-01-31

みとろ周回コースについて


つい最近、このようなのぼりが立てられました。
交通事故については特に聞いていないので、事故が起きることを想定した牽制的なものだと思われます。あるいは、市に対し苦情が寄せられたのだと思います。

それにしても、なぜ自「動」車事故ではなく、自「転」車事故なのでしょうか。


みとろ周回コース


それは、近年、みとろフルーツパークや加古川ゴルフ場、日光霊園、斎場の周りをロードバイク乗りの方々が練習コースとして利用するようになったからです。
https://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=3d8b203bb99f59aa15c78834518840f0

この7kmほどの練習コースは、ロードバイク乗りの方々の間で「みとろ周回コース」とか「見土呂周回道路」と呼ばれたりしています。そこでの練習の様子は、YouTube等の動画サイトや、twitter等のSNSで確認することができます。

https://www.youtube.com/watch?v=UTwJHNLlsBc

自転車で加古川の片隅を走ることを禁じる法律はないのですが、問題は、ロードバイク乗りの方々がスピードを落とさないところです。タイムを記録して練習の成果を計っているわけですから、無理もありません。

彼ら/彼女らが走っているコースは、地元の人ではない不慣れな方々が自動車を走らせている危険な道路です。東西の道は、地元の人ではない、加古川ゴルフ倶楽部の利用者、みとろ荘の利用者、霊園の利用者が、また、フルーツパークのある井坂の南北の下り坂は、みとろフルーツパークの利用者や、産業廃棄物処理業者のトラック、小野方面への通行者がクルマを走らせています。

このようなところをロードバイク乗りの方々が自動車並の速度で走っているので、いつかは大事故が起きるだろうなと思っています。


ロードバイク乗りの方々のマナー問題


みとろフルーツパークも、ロードバイクの乗りの方々に対しマナーを促さなければならない事態に発展しています。施設内でこの程度のマナーであるならば、道路においてどうなのかは想像がつきます。
https://ameblo.jp/mitoro-orchard/entry-11900496107.html
利用状況を嘆いている方もおられます。
https://ameblo.jp/oyamano-shuppo/entry-11937462275.html

「みとろ周回コース」がいつまで練習に使えるかは分かりません。利用者の心がけ次第でしょう。


ロードバイク練習センター設置の提言


一方で、加古川市も、せっかく遠くから自転車を走らせに来てくれている方々がいるのですから、のぼりを立てて済ますのではなく、「漕艇センター」のように「ロードバイク練習センター」をフルーツパークに設けるなどの工夫をしては如何かと考えます。行く行くは大会でも開けば良いでしょう。

フルーツパークには、更衣室やシャワー室のある「ウォーキングセンター」という(あまり利用されていない)施設が既にあるのですから、実現は難しくないはずです。


追記


一部のロードバイク乗りの問題だと思いますが、「みとろ周回コース」のロードバイク規制はやむなしです。

みとろ姫」に続きます。

2020-01-24

ダニ問題について

今日、日本や世界で養蜂を困難なものにしている原因に、ミツバチに寄生するダニがあります。ダニは体液ではなく脂肪体を食べて宿主を衰弱させるだけでなく、致命的なウィルスを蔓延させてもいます。人間でもマダニ(が媒介するウィルス)によって殺されることがあるのです。ミツバチならなおさらです。

このミツバチを悩ますダニとはヘギイタダニと呼ばれるダニです。日本で近代養蜂が始まったのは19世紀からですが、比較的早い段階からダニがミツバチに着いて衰弱させていることは認識されていました。

当時は、ヘギイタダニは「蜂虱」と呼ばれていました。その頃はまだ深刻な問題とは考えられておらず、「勢いの弱い蜂群に見られる」とか、「群れを強勢に保っていれば問題になることはない」とか、その程度の認識しかされていませんでした。

今日ヘギイタダニは「縮れ羽病」の媒介者として恐れられています。よくある言い方をすれば、ダニは「小さな殺し屋」なのです。


薬剤抵抗性について


小さな殺し屋に対処する簡単な方法は農薬(動物用医薬品)を使うことです。しかしこれが自らの首を締めることになりました。ダニの薬剤抵抗性を高めることになったからです。

日本の農水省は、ダニ駆除剤としてアピスタンしか認可していない時期がありました。そのような期間が10年以上にわたって続き、ダニが薬剤抵抗性を獲得する下地が作られました。

一種類の薬しかなかったため連続で使用され、ダニは容易に薬剤抵抗性を身に着けていきました。薬の効きが悪くなったので、サプライヤーを含む養蜂家らは用法に従わない使い方を繰り返し、ヘギイタダニはますますアピスタン耐性を獲得するという悪循環に陥っていったのです。そして、その「強い」ダニがミツバチと共に日本中に供給されていきました。

農水省が一種類の薬剤しか認可しなかったことは農事行政の過ちと言わざるをえません。現在はアピバールという別の薬が認可されており、交互に使うことが推奨されています。アピバールでアピスタン抵抗性を有するダニを駆除しろということです。理屈としては筋は通っていて、アピスタンのみでやっていくよりもマシですが、アピバールも効き目が弱くなっているようです。つまり、どちらの薬剤にも抵抗性を有するダニが出現しているということです。

もう一種類別のダニ駆除剤が認可されれば状況は改善されるのでしょうか?時間稼ぎにはなるでしょう。しかし、ますます「無敵のダニ」を生み出すことになるでしょう。

そもそもダニという種族は薬剤抵抗性を獲得する能力に長けた生物です。化学的処置に頼り続けては、いずれ行き詰まることになります。別のアプローチが必要です。


清浄群の作り方


ヘギイタダニの(ほとんど)いない群れを作ることは比較的簡単です。女王蜂が未交尾の間に蛹を含む蜂児巣房を取り除き、ダニ駆除剤を数日投入することです。あるいは、晩秋から初冬や真夏の産卵停止期間に処方することです。

また、新女王蜂が生まれた群れから蜂児巣枠を抜くと、それだけでその群れのヘギイタダニは少なくなります。この方法の問題点は、人口(蜂口?)ピラミッドがいびつになることです。若年層がほとんどいない群れになってしまいます。現代日本で少子高齢化が問題になっていますがそれどころの話ではありません。巣作りや巣内の掃除、蜂児の世話、特に女王蜂へのロイヤルゼリーの供給や世話は、本来若齢蜂の役割ですが、これを高齢蜂がカバーしなければならなくなります。さらにその高齢蜂が寿命を迎えた頃には、女王蜂が一から産み増やした若齢蜂が、ごっそり抜けた高齢蜂の仕事をカバーすることになります。人口ピラミッドの歪みが解消するのに3か月ほどかかり、強群に育つのにはさらに時間がかかります。


汚染群になる理由


清浄群だとしてもダニ耐性を獲得しているわけではありません。清浄群もいつでも汚染群になりえます。

その原因として「迷い蜂」があります。ミツバチは賢く自分の巣を覚えているといいますが、間違えることはよくあります。養蜂箱はどれも同じ外観をしているので、それが誤帰巣の原因になっています。ダニに寄生された蜂が間違って巣に入ると、清浄群も汚染群になってしまいます。養蜂場にはたくさんの養蜂箱が並んでいるため、誤帰巣を防ぐのは非常に困難です。

別の原因として「盗蜂」すなわち他の群れから蜂蜜を奪うことがあります。他の群れに蜂蜜を盗りに行ったらダニまで持って帰って来たということです。これはニホンミツバチの巣に盗蜂に行った時にも起こります。

結局どうやったところでダニ対策が尽きることはないのです。


グルーミング


猿は互いに毛づくろいします。寄生虫を取っているのだそうです。ニホンミツバチも相互グルーミングを行っていて体に着いたヘギイタダニを落としています。そのため、ニホンミツバチにヘギイタダニ問題はありません。少なくとも顕著ではありません。

セイヨウミツバチはあまりグルーミングを行なわないため、ヘギイタダニに殺られています。セイヨウミツバチがヘギイタダニと出会って百年以上経っていますが、未だにニホンミツバチ並みのグルーミングを覚えていないようです。厳密にはグルーミング行動は観察されているのですが、ニホンミツバチと比べると3分の1程度の頻度のため、ヘギイタダニ問題を克服する域には達していないのです。

カルニオラ種というスロベニアの黒いミツバチは、外観も性質もニホンミツバチに似ておりグルーミングを行うところまで同じで、他のセイヨウミツバチと比べて高いヘギイタダニに耐性を持っています。それでも首尾よく抵抗しているようには見受けられません。国内においては多くの先達がカルニオラ種の導入を試みていますが、ヘギイタダニを克服したという報告は、論文はもとよりネットにおいても存在していません。


ミツバチの未来


ミツバチに数百万年にわたる自然淘汰の歴史を前にすると、人間の知恵なぞ浅いものです。まして「最近」始めた蜂飼いが何かに閃いてこの問題の解決方法を奇跡的に確立するなんてことはありません。

人間があれこれ余計なことをしなくても、当事者である蜂は蜂でなんとかやっていくはずです。ダニ耐性を飛ばしてウィルス耐性を先に獲得することさえあるかもしれません。

わたしにできることと言えば、工夫を続けることと、蜂群の状態やヘギイタダニの死骸をつぶさに調べて耐性獲得の兆しを見逃さないことくらいです。

2020-01-17

暖冬と梅の花

セイタカアワダチソウは生態系を害するか?」の続きです。


今年の梅の花の開花


今冬は異例の暖かさで1月になっても春のように暖かい日があるくらいです。みとろフルーツパークでは13日に梅の花の開花が始まりました。


蜂たちも晴れていれば概ね外勤に出かけています。まるで越冬などしないかのようです。


暖冬は越冬に有利か?


暖冬がミツバチの越冬に有利かと言うと、一般論としては「そのとおりだ」と言えます。温暖地の方が越冬確率が高いわけですが、暖かければ消費する蜜も少なくて済み、貯蜜切れを起こすこともありません。それと同じ理屈が成り立つわけです。

しかし、ことはそう単純ではありません。蜂は蜜を吸ってから外勤に出ますが、その蜜の消費を上回る蜜を持って帰らなければ無駄に蜜を消費することとなります。冬は暖かくとも花の数は限られているため、外勤に出たとしても十分な収穫を得られず収支としてはマイナスになる、という理屈です。

養蜂を始めた当初に上のような説明をどこかで読んだ覚えがあるのですが、今のわたしはそれに懐疑的です。


意外に多い冬の蜜源植物


まず、ミツバチは蜜を無駄に探し回ることはしません。まずは斥候隊/先発隊を派遣し、それの報告を受けて初めて本隊を出動させます。

次に冬でも意外と蜜源はあるものです。主に、ビワ、ローズマリー、ヤツデ、チャなどがあります。最も寒い頃には梅が咲き始めます。

このようなわけで、空振りの外勤蜂が蜜を無駄に消費するという事実はないわけです。


寒の戻り


それでも、蜂が春が到来したと勘違いし蜂児の育成を加速させ、蜜を急速に消費させてしまうことがあります。その蜜が切れたタイミングに寒の戻りがあると、春を目前にして凍死で全滅ということが起こりえます。

これは防ぎようがありません。春が到来したとの蜂の判断を覆すことはできませんし、地球的気象の変化を変えることもできません。寒の戻りに対しては十分な蜂蜜でしか対応できませんが、半年後の蜜の残量を秋の段階に予想することはできません。半年間の花の量と蜜の出ぐあい、蜂の増加量、活動量、天候等々を計算するのは無理というものです。

これについては自然に任すしかなく、できることといえば、なるべく多く蜂蜜を残しておき、また一定の確率で蜂群は失われることを弁えて蜂群を多く残しておくことくらいです。

と、悲観的なことを書きましたが、一般的には蜂の好きに任せて春を待っていれば良いだけです。梅の花が咲いてもまだ春は来ていませんが、梅の花はゴール目前のスペシャルドリンクのようなものですから、今日まで生き延びていれば越冬に成功したようなものです。

夏蕎麦の発芽」に続きます。

2020-01-10

養蜂場ができてから--雑草対策


原野化した農地を開墾するのは大変なことでした。

養蜂場ができるまで--開墾
養蜂場ができるまで--残置物
養蜂場ができるまで--大木の伐採

当時は無我夢中で草刈機を振り回していましたが、今から同じことをやれと言われても、とてもできそうにありません。

これらは破損していったチップソー(草刈り機の刃)です。


かなり危険な刃のこぼれ方をしていますが、幸い自分に飛んできたことはありません。破片は探しましたが、見つけ出すことはできませんでした。今もまだ見つかっていません。


効果的な雑草対策--毎日踏みしめること


一年前に更地にしましたが、元はといえば原野です。草を刈り木を倒したことで、却って日当たりがよくなり、代わる代わる草が生えてきます。月に1度のペースで草刈りを行ってきましたが、雑草の勢いを止めることは困難です。

結局のところ、定期的な草刈りよりも効果的なのは、普段から草を踏みしめておくことでした。通り道に草が伸びることはありません。

今は養蜂場をなるべく隅々まで歩き回って「雑草対策」を行っています。

2020-01-03

上荘を分断した加古川の洪水


上荘町は、印南郡の加古川右岸の町と思われがちですが、加古川左岸にも上荘町はあります。たとえば、JR厄神駅や国包郵便局は上荘町の一部です。上荘町は、加古川をまたいで存在しているのです。


1225年の洪水


なぜそのようになったかというと、今から800年ほど前の1225年(鎌倉時代)に洪水が起きて堤防が決壊し、加古川の流れが変わってしまったからです。

まずは、昔の加古川の流れを調べてみましょう。

この地図は、国土地理院の治水地形分類地図です。
青色の横縞が旧河道です。これをたどると、加古川が、宗佐土山線の西側を南下し、現在の八幡小学校の付近を通り、草谷川(八幡川)より北側を流れ、西条の城山北側ないし五ヶ井用水の取水口辺りを流れていたことが分かります。

現在の加古川の河道と比べるとずいぶん蛇行しています。これが1225年の洪水で真っ直ぐ流れるようになりました。

その結果がこれです。左側の赤線で囲まれたところが都染、右側が国包です。
ちなみに、1225年の洪水では加古川の南を流れていた草谷川(八幡川)も氾濫しました。


左岸の国包


国包は洪水により分断され、村の中心部が川床に沈んでしまいました。村民は、村の東側の出屋敷というところ(加古川左岸)と、西側の井ノ尻(井ノ口の東、現在の日光口)に住むようになりました。

しかしそのことが却って国包を繁栄させることになりました。左岸の国包は、有馬街道上の川渡しや、さらには加古川舟運の船着き場となり、宿や木材加工で栄えることになったのです。

現代では、左岸の国包の生活は八幡町と一体となっています。たとえば、JR厄神駅の名称は、八幡町の「宗佐厄神八幡神社」に由来していますし、また、左岸の子どもたちは、上荘小学校や両荘中学校ではなく、八幡小学校や山手中学校に通っています。


都染


加古川をまたいで存在しているのは国包だけではありません。都染もそうで、左岸にも存在します。もっとも、今は集落はないことから、都染といえば右岸の都染を指すのが一般的です。

みとろ周回コースについて」に続きます。